22:包み込む優しさ

 ピチチチ、と鳥の囀る声が聞こえて意識が上昇してくる。それと同時に襲い掛かってくる頭痛に、うっと呻いた。
ああ、えっと…確か昨日はエースと――
「……!!?」
そこまで昨日のことを思いだしてがばりと勢いよく起き上がった。私の下には柔らかいベッド。そして横には――
「…ん?ああ、起きたか?」
寝起きで力の入らない笑みを向けたエース。そんな彼に向かって、私は勢いよく「ごめんなさい!!」と土下座をした。ああ、忘れたいくらい酷かったのに、ありありと昨日の晩のことが思い出される。


 時を遡ること数時間。
喧嘩のようなものをして居心地が悪くなってしまった先程のバーから、私はエースに手を引かれて出てきた。感情的になってしまってずびずびと鼻を啜る私を彼はゆっくりと導いて路地を歩いていた。
こんな様子で船には戻りたくないと愚図る私に、仕方ないなぁと彼は笑って近くの宿に泊まろうと提案する。私はそれに頷いて、少しずつ収まってきた涙を彼に引かれていない方の手で拭った。
「あ、ちょっと待ってろ」
「?」
途中彼が足を止めて入ったのは、小さなケーキ屋さんだった。こんな遅い時間でもまだやっているその店は、ケーキや焼き菓子の甘い匂いが漂っている。離された手に残る彼の少し高い熱を名残惜しく思いながら、彼がいくつものケーキを買い込んでいるのをぼんやり見つめていた。大きな箱に入れられたケーキを持ちながらやってきた彼にまた手を握られ歩き出す。彼がケーキを購入した理由が分からなくて、けれどそんなことを聞けるような状態でもないから私は黙って彼の後に付いて行った。
「あ、ここも寄っていいか?」
疑問形なのに最早私の返事など待たずに二件目のお店に足を踏み込む彼。漂う香りに顔を上げてみれば、そこは酒屋だった。これ持っててと渡されたケーキを持って、彼の買い物を待つ。少しして大量にビールを買い込んだ彼が片手を塞がれながら、もう片方の手で私の手を引き出した。
始終無言で地面を見つめながら歩く私に、彼も合わせて無理に言葉を発しようとはしなかった。十数分歩いたところで、泊まる部屋が空いていた宿を見つけ、私たちはそこに入り込んだ。
「……」
「お、中々広いな」
彼に続いて入った部屋にはベッドが二つとソファなどの家具が少しあった。窓の外を見てみたら、ベランダに二人用の椅子と円卓がある。からら、とエースが窓を開けてそこにビールと私の手から取り上げたケーキを置いて、椅子に座りこんだ。
彼につられるようにベランダに出てみると、遠く離れた暗い海にモビーディック号が浮かんでいるのが見えた。それを見たらまたじわりと涙が浮かんできて、私は優しく彼に握られた腕に従って椅子に座る。
「溜め込むな、吐き出せよ」
よしよしというように頭を撫でる大きくて温かい手が、私の涙を誘発する。ああ、どうしてこの人はこんなに私に優しいのだろうか。ぼろぼろと涙がこぼれて、月の光だけのベランダに吸い込まれていく。


「お、なかすいた!のどかわ、いた!4年間、ずっと我慢してきたの!!!」
「うん」
「似たよ、うなもの、たべても…っ、おさま、らないっ、の!ひどくなって、本物がのみたく、なるのっ」
「うん」
「でも!それをしたら、捨てられちゃうからっ、マルコとサッチに嫌われたくない、から!」
「うん」
「のんだら、だめなのっ…に、んげんでいたい、から……みん、ながだい、すきだから…っ」
「うん、知ってる」
「かぞくだから…っ、きずつけ、たくない…!!」
「ああ」
「きらい、にならないで…!すてないでっ」
「誰がお前を捨てるかよ。…皆お前が大好きなんだ」
「うっ…ぐ、エーズ…」
「うん」
「エー、ズ」

「エース…エース…」
「大丈夫だ、ここにいる」


 ぐちゃぐちゃになってしまった脳で、支離滅裂なことや行き場のない、持て余していた感情をぶつけても、彼は穏やかに笑って私の頭を撫で続けていてくれた。うっうっと泣きじゃくり続ける私に、好きなだけ飲んで食って良いぞと彼がケーキの箱を開く。大量に買い込んだビールも机の上にどんどん置いて、彼はにっと笑った。その笑顔があまりにも優しくて眩しくて私はまた涙が溢れだすのを感じた。
涙をぼろぼろ流しながら私は色とりどりのケーキを手づかみで取って口に運んだ。――甘い。最近食べていなかったサッチのケーキの味を思い出して、また涙が溢れる。よく噛まずに飲み込んだケーキが喉に詰まりかけて、エースが開けてくれたビールでそれを流し込む。ごくごくと喉に流したそれは初めての味で、とても苦い。それでまた、お酒はせめて18歳になってから飲めよとあれほど注意していた彼らの顔を思い出して、嗚咽が止まらない。
「ほら、いっぱい飲んで食えよ?」
「う゛、ん…っ」
「今日だけはそんなの忘れちまえ」
私には勿体無さ過ぎるぐらいの優しさを持つ彼の言葉に、何度も何度も頷く。
涙も嗚咽も馬鹿みたいにこぼしながら、私はずっと私の背中を擦り続けていてくれる彼に感謝した。どうやったって、自分のことしか考えられない私のためにここまでしてくれる彼に、私は幸せを願った。信じてすらいない、むしろ恨んでさえいた神に祈りさえした。
――どうか、どうか、馬鹿みたいに優しい彼に神のご加護を。


「う………、エース…」
「どうした?」
今までがつがつとケーキをかきこんでいた私の手がぴたりと止まったことに彼が首を傾げる。
ああ、だめだ。もう、我慢できない。
「きもちわるい…吐く……」
「は!?ちょっと待て!!」
うっと口元を押さえた私に、彼は慌てて向かいの席に座っていた私を横抱きにする。ちょっと我慢しろ!と備え付けのトイレまでだっと走って便器の前に私を下ろした。と同時に私は我慢の限界で、胃からせり上がってくるものを便器の中に吐き出した。
「うええええええええ」
「ははは、よく食ったなァ」
垂れ下がってきそうな髪の毛を後ろで持って、背中を擦ってくれる彼に汚いものを見せてしまったと申し訳ない気持ちになる。笑いながら「いっぱい飲んだもんなァ」と話しかけてくる彼には悪いが、私は今それどころではない。飲んで食べたから今吐いているのだが。まだ治まらない胃のむかつきに苦しそうに呻き声を上げていれば、彼は全部出しちまえと言って、私の口の中に指を突っ込んだ。
「おえええ!」
「すっきりしただろ?」
ぐっと突っ込まれた指でまた胃の中からケーキの残骸と胃液と混ざったお酒が口から溢れた。すっきりしただろ?ってそんなにこやかな顔で言われても、彼に嘔吐の介抱をされたことが軽くショックである。まあ確かに彼のおかげで気持ち悪いのが無くなったのは事実だ。
口の中が気持ち悪くて洗面所でうがいをする。隣で手を洗っていた彼を見ながら、エースの手に汚いものを付けてしまったと罪悪感が膨らんだ。けれど彼はいたって気にしていないように見えるから、とことん優しすぎると思ってしまう。
すっきりしたら急に襲ってきた眠気に、ふらふらと頭が揺れた。彼はそんな私の手を引いてベランダに近いベッドに寝かせた。寝ているここからだと闇の中にぽっかりと浮かんだお月様が見える。新月はにんまりと笑っているチェシャ猫の口のようで、私は寝るように促す彼の温かい手に縋りつきながら目を閉じた。
「おやすみ、
「お、やすみ、えーす」
傍で頭を撫でてくれている彼の手を感じながら、今日は久しぶりに朝まで寝むれそうだと思って、私は意識を手放した。


 そして現在に至る。
「本当にごめんなさい……」
「良いって良いって。面白いもん見れたし」
隣のベッドで胡坐をかいている彼が眠そうにふわあああと欠伸をした。
ふと、彼がベッドから立ち上がって私と目線を合わせた。するり、と頬に添えられた手に言葉は無くとも彼が私のことを気にかけてくれているのが分かる。
頭は痛いけれど、不思議と焦燥感や不安でぐちゃぐちゃになって壊れる寸前だった心は、少しだけ靄が晴れたような気がした。一人で抱え込んでいるのではなく、少しだけでも彼に打ち明けたことによって心の負担が減ったのだろう。
「帰ろうか」
「うん」
がんがんと響いている私の頭を気遣うように、彼はそっと私を立ち上がらせる。当たり前のように引かれる手に、今は安堵しか覚えなかった。私のことを少しでも理解してくれようとした、黙って私の話を聞いてくれた彼のぽかぽかした手が私の人より少し冷たい手を包み込んでくれることに、酷く安心する。
ああ、そうだ。まだ彼には言っていないことがあった。こんなにも重要なことを言い忘れていただなんて。忘れてしまわないうちに言ってしまわければ。

「エース、ありがとう」
彼の背にその言葉を投げると、彼は振り向いて太陽のような笑顔を私に向けてくれた。


2013/02/15


inserted by FC2 system