21:ほつれる糸

 俺には恋人と呼べるような女はいない。元々1番隊隊長という身分柄、そこまで暇があるわけではない。その残りの時間を普段はと共に過ごしていたのだが、何年か前から徐々に俺たちから自立し始めた彼女へ募る焦燥感から、俺は一人のナースとそういう関係になった。けれどそこに愛情は無い。所謂、身体だけの関係。けれど、相手がそう思っていないのは最初から気付いていた。だから何度もこの行為に愛は無いのだと彼女に警告をし続けて予防線を張ってきたけれど、彼女はやはり内心愛を求めていたのだろう。
そんな彼女を利用するだけ利用して、その場限りの快楽を貪っている俺は何と汚れた人間だろうか。けれど、そうでもしなければ、この収まりきらない感情をに向けてしまいそうで怖かったのだ。リザヴェータを抱いている時だけ、そんなことを考えずにすんでいたのだ。けれど、行為が終るのと同時に襲い掛かってくる自己嫌悪の波と彼女への執着心。
いったいいつまでこんな関係を続けていたら良いのだろうか。
そんな後ろめたい関係ゆえ、俺たちは日の光の下で話すことはほとんどない。そんな、利用されているだけと分かっているのに健気に応えようとする彼女が、オヤジとの会話の隙に手のひらに小さな紙を握らせたのには驚いた。
オヤジとの会話が終った後に、その紙を開いてみるとそこには「後で話があります」と書いてあった。時間は指定されていなかったが、お互い誰にも見られたくない関係ということを考慮して、町はずれのカフェで話したいという旨が書き足されている。
彼女はいったい何を話したいのだろうか。もしかしてこの関係の終末だろうか。それならそれで良い。やっと彼女の目が覚めたのだとこの関係に終わりを迎えることが出来る。けれど、それ以外だったら。俺には予想もつかない。
とりあえず彼女に時間を指定しに行こうと、各隊長がまとめた書類を持ってオヤジの元へ行く。酒を飲みながら俺の報告を聞いてくるオヤジに書類をぱらぱら捲りながら答える。その場にはリザヴェータもいた。そっと、自然な動作で近づいてきた彼女にだけ聞こえるように、コツコツと足で甲板を叩く。鳴らした音は二回。俺たちの中での二時間後に、という合図だ。彼女はそれにカツンとヒールの音で答えた。一回だけの時は了承の意だ。
俺はそれを聞いて、オヤジへの報告を終えたことでその場を離れた。


けれどその話を聞くことは出来なくなった。俺たちに何も言わずに、がエースと共に町へ遊びに行ったのだ。たったそれだけのことなのに苛々している俺はリザヴェータの話どころではなかった。そして彼女もそれが分かったのか、オヤジの傍で仕事をしていた。


「ちょっと待って、エース」
「ああ、悪ィ悪ィ」
つい引っ張り過ぎてしまったの腕を離して向き合う。多少早歩きをしただけなのに息を切らしている彼女に、この前の晩のような力はない。
――あの後俺は、やはり彼女を放っておくことは出来ないと思って、彼女を少しでも元気づける為に街へと連れて来た。彼女も女だ、町で買い物をすれば少しは元気になるかもしれないと考えたのだ。
いつも身に着けているイアリングとチョーカー以外には、彼女はアクセサリーを持っていないらしく、何か良いやつ買ってやるというのを口実に強引に彼女を連れ出した俺は、一軒一軒店を覗くことに決めた。
「別にこれだけで良いのに」
「無理にとは言わねえさ」
元々、それらのアクセサリーをマルコとサッチから誕生日プレゼントに貰ったと教えられていた俺は、それに勝るようなアクセサリーがあるとは思えない。洒落っ気の無い彼女が毎日それを身に着けているのが驚くほどなのだ。きっと買ったとしても大事に箱の中にしまわれてしまうのがオチだろう。
そんなことを分かりきっている俺の.本来の目的は別にある。それは今日一日彼女に付き合って、少しでも溜まっている不安や悩みを訊きだそうとすることだ。彼女は大事なことは一人で抱え込むような性格をしている。そんな彼女から悩みを少しでも訊きださないと壊れてしまうような気がしたのだ。
だが相手はだ。秘密は絶対に言わないような堅い性格をしている彼女から悩みを訊きだすのは骨が折れるだろう。だから俺は酒を飲ませて本音を言わせるのも仕方がないかと思っている。
「今日はだけが俺を独占できるんだぞ?」
「エースだって私を独占してるくせに」
彼女の気持ちを少しでも解したくて、俺はおちゃらけてウィンクをした。そうすれば、下からウィンク下手くそと彼女の笑う顔が見れたから良しとする。


 マルコたちと一緒にいると何だか私の中の化け物が暴れ出してしまいそうな気がして、強引にエースにデートらしきものを誘われるままに町へ下りてみたが、案外楽しむことが出来た。直射日光に何時間も当たっていると身体が辛くなってしまうことを知っている彼は、少し進む度に屋内の施設へ足を向けてこの服はに似合うだとか、この指輪はお前には大きすぎるだとか、私のコーディネイトをしてくれる。でも、それらは半袖だったりノースリーブだから、私は無理と却下した。私だってこんな可愛い洋服を着たい。けれど仕方ないではないか、太陽は私のことが嫌いなのだ。だからこんな薄い服、私は着れない。
そんな私を分かっているのか、分かっていないのか、彼は試着すんのはタダだから着てこいよ!と私が却下しながらもじっと見ていた洋服を店員さんに預けてしまう。
「着たら見せろよ」
「強引だなぁ」
試着室に入っていった私に、外から彼の声がかかる。店員さんの「可愛らしい彼女さんですね」という声が聞こえて、またそれにふざけて「そうだろ?」と返しているエースの声が聞こえて恥ずかしくなった。まったく、エースは私のお兄ちゃんじゃないの?
私が着てみたのはペールグリーンの長袖のワンピースだ。半袖のものは皆腕に付いた噛み痕が見えてしまうため、仕方なく断念した。けれど、長袖でも十分可愛い。こんなに自分が心から着たいと思った洋服を着たのはいつぶりだろうか。鏡に映る自分の姿に、じわりと涙が浮かぶ。
でも外にエースを待たせていることを分かっているから、鼻を啜ってその感情を押し留めた。
「…どう?」
「お!似合ってんじゃねえか!」
試着室のカーテンを開けて彼にワンピース姿を見せる。所々リボンやレースが付いているこんな可愛い洋服を着たのが久しぶり過ぎて、少し気恥ずかしい。
けれど彼は何度も似合っていると褒めてくれるから、私は嬉しくなった。
本当に気に入ったその一着だけ、彼が私にプレゼントとして買ってくれた。それが入った紙袋を持ちながら、私たちは夕暮れに染まり出した町を歩いた。
エース、買い物に連れ出してくれてありがとう。


「エース、もう帰ろうよ」
「ん?あ、あともうちょっと!」
とっぷりと暗闇に覆われてしまった町に、私は早く船に戻らなければという思いに駆られた。サッチたちに散々言われ続けてきたのだ。夜の街に一人で出歩くなと。今はエースもいるけれど、その約束を破っているような気がして、私は内心焦っていた。
「ほら、酒でも飲みながら話そうぜ」
「お酒……」
やべえまだの悩み訊きだしてない!だなんて私とは違う意味で焦っている彼には気付かずに、私はお酒というものについて考えた。今までお酒は飲んだことはない。自分で律していたこともあるが、何より「せめて18歳になるまでは飲むな」と言っていたマルコたちの影響が強い。けれど、今お酒を飲んだら一瞬でも喉の渇きを忘れることが出来るのではないだろうか。それにエースと一緒なのだ、何かあっても彼が何とかしてくれる。そう他人任せに、私はうんと頷いた。
「ここで良っか」
「うん、任せる」
エースが入った所は、小洒落たバーだった。中は何人かの客が思い思いに寛ぎながら会話を楽しんでいて、私は何だか大人の空間に入ってきたようで少しどきどきする。こんな場所初めてだったから、どうすれば良いのかも分からずに彼に促されるままにカウンター席に座った。
はお酒飲んだことないんだろ?」
「うん、初めて」
初老の男性のバーテンダーがしゃかしゃかと腕を振ってとろりとしたカクテルを小さなグラスに注ぎ込む。どうぞ、と差し出されたそれにありがとうございますと返して私は恐る恐るそれに口を付けた。
「美味しい」
「だろ?」
隣で同じものを飲んでいた彼が、私の感想にニカッと笑う。私はカクテル、というかお酒がこんなに美味しいものとは知らなかったから口の中に広がったその味に驚いた。
――ぽつりぽつりと日常的な会話を続けてお互いに笑ったり、驚いたりして気持ちの良い時間が過ぎていく。その頃には私はカクテルを3杯程飲んでいて頭がふわふわしている状態だった。だから、突然真剣な顔をしたエースの口から投げかけられた言葉に、酷く動転してしまった。
「なあ、お前最近何かに悩んでねえのか?」
「――……」
思いにもよらなかった言葉に、言葉が詰まって無言になる。どくんと跳ねた心臓を押し隠すように、何もないよと笑うけれど、逃がす気のない真っ直ぐな彼の目にまたもや黙り込んでしまった。
ああ、どうして彼にそんなことを気付かれたのだろうか。よっぽどマルコたちよりも鈍そうなのに、どうして彼が。
誤魔化しを許そうとはしないその目に、私は観念して彼に真実の一部を話すことにした。
「……喉が渇くの」
「喉?」
怪訝な顔をしたエースに、それとお腹も空くと呟く。ずっと、ずっと何年も悩まされてきたその不快感を彼に伝えると内容に似合わない程に真摯な顔で先を促された。
そのことによって、私はまたぽつりぽつりと彼にしか聞こえないような小さな声で今まで誰にも口にしなかった思いを吐き出す。こんなに話してしまったのは酔いが回っていたからだろうか。
「耐えられないくらいの渇きと飢餓で気が狂いそうなの。ずっと、何年も我慢して……」
「何で飲んだり食ったりしないんだ?」
正直に疑問を口にした彼に、はっと嘲笑が漏れる。否、これは彼にではなく化け物である自分自身に対しての嘲りか。
「…私が、必要としているものを食べたら、…もう、私は私でなくなるの。そうなったら、マルコたちは私を捨てるに決まってる。捨てられたくないの。捨てられるのが怖いの!」
抑えていた思いを吐露してしまえば、胸が押しつぶされてしまいそうな感覚がぐっと押し寄せて、じわりと視界が何かで歪んだ。彼には分かるだろうか、私の気持ちが。ずっと、あの迷子になった日から私は彼らに見捨てられないように無意識に、彼らを困らせる我儘とそうではない我儘を取捨選択して生きてきた。それなのに、私の身体の中には確かに自分自身で制御できないような凶暴で欲望に塗れた獣が巣食っていて、それを壊そうとする。
「あいつらがお前を捨てるわけないだろ」
「エー、スは…本当の私を知らないから…!」
ぎらりと怒りが滲んだ目で、私のことを見つめる彼。なんであいつらのことを疑うんだよと言う彼は、隠している私を知らないからそんなことが言えるのだ。
――知らないくせに。知らないくせに!私が、どれだけこの恐怖と闘ってきたか知らないくせに、どうしてそう簡単にそんなことを口にするのだ。血に飢えた醜い私を知らないから、そんな言葉を口にするのだ。
「マルコたちが…本当の私を知ったら、軽蔑するよ!」
「っの、分からず屋が!」
ぱしんと乾いた音が響く。ジャズの音楽が静かに流れるそこには不釣り合いな音で、それは自分の頬をエースが叩いた音で。初めて彼に手を上げられた事実に頭が硬直する。彼は私の頬を叩いた手で、しかし優しくそこに触れて両手で挟みこんだ。
「あいつらが、どんだけお前を大切に思ってるかなんて見てりゃ分かるんだよ」
先程とは違って静かに私を諭すように述べられた言葉に視界がこれでもかという程歪んだ。それでも、そんな視界でも、彼が私を馬鹿な妹だと優しく微笑んでいるのが分かる。
ぽろぽろと頬に溢れた涙が流れた。彼は優しい。彼が叩いた私の頬をゆっくりと撫でてくれる。叩く時の力だってきっと彼の本気の力の1割も出してなかったに違いない。
――彼がそう言う。そうだと分かっている。それでも、それでも
「それでも……っ、信じることが、できない……!」

怖くて、怖くて堪らなくて、私は何よりも大切な彼らを信じることができないのだ。


2013/02/15


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