20:君の泣き顔を、見て見ぬふり

「どこ行ってたんだよい」
部屋に戻ると、マルコはもう起きて着替えていた。ベッドの端に座ってこちらを見てくる二つの青い瞳に、なるべく自然に「散歩とトイレ」と笑顔を返す。そうすれば彼はそうかと言って欠伸をした。
彼を誤魔化すことが出来てほっと安心するが、同時に罪悪感を覚える。嘘は言っていない。似たようなことをしたのだ。そう言い聞かせても、私は彼に嘘を吐いたという良心の呵責に悩まされる。
「おう、おはよう」
「おはよう、サッチ」
何やら少し慌てた様子でマルコの部屋を開けた彼に、私は心拍数が上がるのを感じた。そこまで緊迫していないが、だからといってそれを逃がすような素振りを見せない彼に、私は密かにごくりと生唾を飲み込んだ。
「聞いたか?飼育小屋の鶏が一羽いないんだってよ」
「どういうことだよい?」
「羽と血が飛び散って、一羽だけいなくなってたんだってよ」
二人の会話にじわりと手の平に嫌な汗が滲む。
――たぶん、犯人は私だ。
記憶は全くない。けれど、口の中にあった羽がそれを物語っている。恐らく、極限まで血を飲むことを我慢していたが、とうとう身体が耐えきれなくなって寝ている間に、本能的に鶏を襲ったのだ。
私は、肉まで食べたのだろうか。生きた鶏を切り裂いて血を啜っただけじゃ物足りずに、食べてしまったのだろうか。
そう考えると吐き気が込み上げてきた。うっと喉元までせり上がってくる不快感に口を押えて耐える。二人はまだその話を続けている。おかげで私が吐き気と全力で戦っていることを悟られずにすんだ。


 今日の朝食は生きた心地がしなかった。何人もの男達がその鶏の話をするのだ。血痕と羽以外残っていない状況に、いったい何が鶏を襲ったのかという推測が飛び交っていたのだ。加えて、鶏の最期を思うと吐き気が込み上げてきて、私は朝食どころではなかった。
私はまるでお前が犯人だと責められているような気がして、朝食もそこそこに食堂から出てきてしまった。
皮肉なことに、鶏を食べたおかげか少しだけ体力が回復したようだった。今朝もエースから逃げた時にいつもより早く走ることが出来たし、私に食べられた鶏は確かに私の糧になっているらしい。
身に覚えのないことだけれど、私は鶏を食べたと認めなければならないだろう。
ぐっと唇を噛み締め、日の光に怯えながら資料室に向かった。
資料室の扉をぱたんと閉めて、いつものソファの上にごろりと横になる。


――そろそろ、私も限界に近いのかもしれない。一度飢えと渇きの限界は越えたと思っていたのだが、やはりこれ以上の栄養失調には身体自体が耐えられないのだろう。
もう、船を降りるべきだろうか。こんな風に身体の中の化け物を押さえつけられなくなってしまってきているこの状態は危険だ。今日は犠牲になったのが鶏だったけれども、本能を理性で抑えつけられなくなってしまった時、傍にいるのがマルコやサッチだったらどうしよう。彼らを傷付けたくない。それに、嫌悪や軽蔑の目で見られたくなかった。
彼らに愛していると言われながら殺されるならそれで良い。けれど、化け物!と不安と恐怖にかられた目で罵られ殺されるのは嫌だ。そんなの、耐えられるわけがない。愛している者たちから、そんな風に見られるのは恐ろしかった。
どうすれば良い?どうすれば、私は捨てられなくてすむ?いくら考えても最悪な未来しか考えられない。
「た、すけて……っ」
涙と嗚咽が顔を覆った手からこぼれる。それは、誰にも言えない言葉だった。誰にも、頼ることを許されない私だけの秘密。この秘密さえなければ、私は苦しまずにすんだ。元気にはしゃいで、笑って、いつまでもマルコたちの隣で幸せに過ごすことができた筈だったのに。
――決断の時が迫っているのは、私にはよく分かっていた。


 最近、の元気がない。元々出会った時から彼女は気怠そうにしていたけれど、最近では更に元気がなくなっていた。
今回上陸した島に足を下ろしながら、俺はそんな彼女のことが心配だった。けれど、俺も今では2番隊の隊長だ。彼女のことだけを考えられるような身分ではなくなってしまった。
今も食料の調達に2番隊の連中と共に向かっている。モビーディック号の中での一番の大食漢は俺だ。そんな俺が食料を調達しない時は少なかった。
――だけど、俺はあの時の光景を忘れられなかった。


 夜中、宴が終って数時間寝たが、酒を飲み過ぎたせいか薄らと意識が戻ってきた。仕方ねえ、便所に行くかとベッドから起き上がって男子トイレへと向かう。用を足すまでは寝ぼけていたのだが、用を足して手を洗うと一気に目が覚めてしまった。
どうすっかな、なんて考えながら扉を開けて廊下に出る。寄り道でもしてから部屋に戻るか、と夜空に煌めいている星を眺めながらぶらぶら歩いた。
ふと、ばさばさと何かが暴れるような音が聞こえて耳を澄ます。一瞬コケェ!とか細い鳴き声が聞こえたが、その音は瞬間的に消えてしまった。
飼育小屋の方で何かがあった。何が起きたのかは分からない。けれど、行って確かめる必要はある。俺はなるべく足音を立てないように、しかし足早に飼育小屋に向かった。
そろり、と壁から顔を覗かせる。何かあったらすぐにでも能力を使えるように、手足を確認しながらいったい何が起きているのかを確認しようとした。
暗がりの中に小さな影が見える。月の光が届かないそこは、もう少し目が慣れないと見えそうになかった。
暗がりの中にいる影に気付かれないようにじっと目を凝らしていく。その間にも、バリッだとかびちゃびちゃ、何かを噛み砕くような不快な音が聞こえる。
段々慣れてきた目が捉えたのは、見慣れた白い髪を持つ少女の後ろ姿だった。なんだ、かと安堵して声をかけようと壁から俺は出てきた。
「おい、。こんな夜中に――」
途中まで言いかけた俺は、彼女の足元に散らばる血溜まりと所々に肉片がついた骨、赤く汚れた羽が視界に入って言葉を失った。――何だ、これはいったいどういうことなんだ。ばくんばくんと心臓が早鐘のように打ち始めた。
俺の声に反応して振り返った彼女は感情の籠らない目で俺を見つめた。暗闇の中でも分かる程に、彼女の赤い瞳は爛々と輝いて瞳孔が開き切っている。俺を見つめている筈なのに、どこか視線が交わらないその状況にぞっと鳥肌が立った。
――まるで、ではないようだ。ぐるるる、と飢えた獣のような唸り声を出す彼女に、悪魔にでも取りつかれているんじゃないかと馬鹿な考えが過る。一心不乱に死んだ鶏の亡骸に噛みついている彼女を見て、はっと意識が戻ってきた。
とにかく、彼女を止めなくては。彼女の顔にはべっとりと鶏の血が付いていて、所々羽も付いていた。
、もうやめろって」
口から出た言葉は、思いの外震えていた。どんなに強大な敵にぶつかった時でさえそんな声を出したことはなかったのに。これはたぶん、得体のしれないものに抱える恐怖からだ。見た目はなのに、中身は彼女ではない、何か獣じみたもの。そんな状況に、言い知れぬ恐怖を覚えたのだ。
ぐっと彼女の腕を掴むと、ぬるりと生暖かい血に濡れていた。病的なほどに白い肌にその鮮血は恐ろしい程に映える。
鶏を取り上げようとする俺に抵抗するように彼女が暴れる。こんなに細い身体のどこにそんな力が秘められているのかと言う程の力だった。
ぐるると唸りながら彼女が腕を思い切り振ると、俺は呆気なく宙を舞った。振り飛ばされる速度に一瞬頭が白くなる。彼女はどうしてこんな力を。戦闘員ではない彼女の力の強さに驚きながら、床に激突する前に静かに着地をすると、彼女は脱兎のごとく逃げ出した。
!」
寝ている仲間たちを起こさないように、静かに彼女の名を叫ぶ。けれど、彼女は俺の事を振り返ることなく駆けて行ってしまった。
――どうする、この状態を。まるで悪夢だ。生き残った鶏たちは何故かは分からないが、声を上げることなく狂ったように羽をばたつかせていた。それを鎮めるために俺は無残な姿になった鶏を海に放り投げた。その死骸は暫くして匂いを嗅ぎつけてきた魚に食べられて姿を消した。
「なんなんだよ…」
手の平にべっとりと付いた血に身体が震える。血なんて慣れていた筈だったのに、どうして今更震えるんだ。精神的に参ってしまった俺は、血や羽を掃除するということにまで頭が回らず、そのまま自室に戻って倒れるように寝てしまった。


そのことを翌朝酷く後悔した。何者かが鶏を襲ったと船中の人間に知られてしまったのだ。幸い、がやったとは判明していないようだったが、それでもこの疑惑が彼女を苦しめるだろうという事は理解できていた。その証拠に、早朝にトイレの前で偶然顔を合わせた彼女は酷く怯えたような顔をしていた。
あの時の彼女には意識が無かった。けれど翌朝目が覚めたら顔に付着していた身に覚えのない血と羽に恐ろしくなったに違いない。きっと今まで誰にも見つからないうちに付着した血を洗い流していたのだろう。
何も覚えていないだろう彼女に、昨日の晩に起きたことを言うのは酷く心苦しかった。だから俺は何も知らない振りをして笑って、彼女の下手くそな笑顔を見て見ぬふりをしたのだ。


2013/02/12


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