19:the nightmare of morning

 エースが一人でドーマの一団を降伏させた。その出来事はこの船を大いに賑やかにさせる。
私はその時の光景を見ていない。少し離れた船の上にまで血の匂いが漂ってきそうなのが怖くて、資料室に籠ってそっと息を殺していた。
けれどそれを見ていた男達の話によると、彼は炎を上手く使ってあっという間にドーマを降伏させるに至ったらしい。私も、こんな状態でなければ彼の勇姿を拝んでみたかった。
今夜は宴に違いない。海賊は何かにつけて宴をするものなのだ。生憎だが、私は未成年だからお酒を飲むことは出来ない。元の世界での身に染みついたルールだから、そんな簡単には抜けきらない。酔っ払った男達は私にお酒を進めてくるが、サッチやマルコがそれを止めるから私もそれで良いかと思って今までやってきた。


!飲んでるか?」
「飲んでるよ」
サッチとマルコの間に座って、ちびちびとオレンジジュースを飲んでいた私の元に、本日の主役がビールジョッキを片手にやって来た。千鳥足、とまではいかないがほろ酔い気味の足取りでこっちに来た彼はへらへら笑いながらどっかりと私たちの前に腰を下ろす。
「お前やるよなァ!!あのドーマを一人で降伏させるたぁよォ!」
「俺はオヤジを海賊王にするんだ!それくらい出来ねえでどうする!」
酒とつまみに手を付けながら進められていく会話に耳を貸しながらジュースを飲む。ごくごく飲んでも喉の渇きが癒えることは無く、トイレに行きたくなるだけだと分かっているから、私は本当に少しずつしか飲んでいなかった。
サッチとエースが大きな声で笑い合っているのをぼんやりと見つめる。隣にいるマルコは何だか今日は静かにお酒を飲んでいるらしい。時折彼らの会話に入ることもあるが、二人とのテンションの差に、徒に口を閉ざしては酒を煽っていた。私はそんな彼の腕にこてんと頭を寄りかける。人間とお酒、血の匂いがごちゃまぜに混ざって、匂いだけで酔ってしまいそうだった。ああ、喉が渇いた。
「眠いのか?」
「うん」
マルコがふと酒を煽る手を休めて私のことを見下ろす。そういえば夜も更けてきたと思って、私は別に眠くもなんともない、ああでも実際はやっぱり少し眠いかもしれない。なんて思って頷いた。そうすれば彼は、私が立ち上がるより先に私のことを抱えて立ち上がった。私、一人で歩けるのに。
「こいつ寝かせてくるよい」
「おう、もうそんな時間か?」
「お子様には遅い時間だもんな!」
何がおかしいのかけらけらと笑い続ける彼らを、マルコの肩口からむすっとした顔で見下ろす。サッチのお子様発言には少しイラッときたので、偶々手に持っていたピーナッツを彼の目玉に向けて投げつけてやった。そうすれば、酔って思うように身体を動かせない彼は顔にピーナッツが当たって「イテェ!」と騒ぐ。
それを見てエースがげらげらと笑いこけて、私とマルコはそれを見て小さく笑ってからその場を後にした。
甲板から少し歩いただけで、宴の喧騒が小さくなる。私はマルコの肩に顔を埋めて彼の香りを吸い込んだ。ボディソープと少しの汗とお酒の混ざったような匂い。とても良い香り。今すぐにでも彼の首筋にある血管を切り裂いて、芳香をまき散らすその血を啜ってしまいたい。唾液がじわりと浮かぶけれど、それを飲み下してその欲求を我慢する。
「ほら、パジャマに着替えて寝とけよい」
「マルコは?」
「俺はもう少し飲んでくるよい」
部屋に着いて床に下ろされる。ベッドの上に畳んでおいた寝巻に腕を通しながら、ソファに座った彼に問いかけると、彼は欠伸を噛み殺しながらそう答えた。壁にかかってある時計を見たら、もう12時を回っていた。たぶんあと1、2時間で宴もお開きになるだろう。それに彼は最後まで付き合うのだ。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
月の光が薄らと射しこんでくる扉を閉めて、彼は出ていった。こつこつと彼の足音が徐々に遠ざかっていく音を聞きながら、私はぐるるると唸り声を上げるお腹を押さえて目を閉じた。
意識を飛ばし、暫くたってから私の隣に少し冷たい身体がもぞもぞとくっ付いたのを、夢の中でも確認をして、私は深い眠りに落ちて行った。


――お腹空いた。喉が渇いた。どうして我慢するの?だって、私は人間でいたいから。家族の血を吸いたくないの。そんなことをしたら皆に嫌われちゃうし、マルコたちに捨てられる。パパだっていつもはあんなに私のことを優しい目で見てくれるけれど、私が化け物だって分かったら、きっと嫌悪の目で見るに決まっている。パパは何よりも家族を大切にしているのだ、そんな家族を食い物にする私なんて嫌いになるに違いない。
それは嫌だ。捨てられるのが怖い。元の世界からも捨てられたのに、この人たちを失ったら私は誰に頼って生きていけば良いのだろう。何も出来ないような年齢ではない事など私が一番知っている。けれど、それを分かっていても私は彼らに頼らなければ生きていけないのだ。彼らは心の拠り所なのだ。だから、この喉の渇きも我慢しなければ。決して知られないように、隠して隠して、誰にも見つからない所にしまっておかなくては。
ああ、でも良い匂いがする。からからの喉を潤してくれそうな良い香り。飲んでしまいたい、飲んでしまいたい。枯れる前に飲んで噛んで引き裂いて温かな血を、この身体に流し込んで――


 薄らと意識が上昇してきて、私はマルコの腕の中で少し身体を動かした。
「……?」
しかし口の中の違和感に気が付いて、身動ぎしようとしていた身体がぴたりと止まる。――何か、口の中に入っている。
マルコを起こさないように、恐る恐る手を口の中に持っていった。私の唾液と何かでべっとりと濡れたそれを出して確認する。
――それは何枚もの白い羽だった。
「……」
赤い液体でべっとりと汚れているが、元が白かったのは分かる。けれど、なぜそんなものが私の口の中に。体験したことのないこの状況に、心臓が耳元でどくどくと五月蠅くなっていく。一体、何が何だか。現状が全く理解できない。けれどこの言いようのない不安と嫌な予感に、一刻も早くこの証拠を隠滅した方が良いと頭が警告してくる。
私はマルコの腕からそっと抜け出した。立って自分の恰好を確認してみる。寝巻にも返り血のようなものがべっとりと付いていて、私は思わず悲鳴を上げそうになった。すんでの所でそれを押さえて、震える息を吐きだす。私は着替えの洋服を手に持って、部屋の洗面所ではなく外の女子トイレに向かった。こんな姿をマルコに見られる訳にはいかないから。誰にも見つからないように、どんな些細な音でも聞き漏らさないように耳を欹てて廊下を進む。漸く辿り着くことが出来た女子トイレに素早く駆け込んで、誰もいない事を確認した。鏡で自分の顔を確認してみると、べっとりと口の周りに赤い液体が付着していた。

――血、だ。

誰に言われなくても分かる。同じ色をした、鉄臭いだが甘美な味が私の口の中にまだ色濃く残っているのだから。
私が何をしたのかは分からない。けれど、このままではいけないのは分かっていた。すぐ側にあるゴミ箱に汚れた羽を捨てようかと思ったけれど、そこでは見つかる恐れがある。震える手で個室の扉を開けて、その羽を便器の中に流した。流す際に手元に目が行く。じっくり見なくても、私の爪と指の間に同じく血がこびり付いているのが確認できた。
どくどくどくどく、と心臓が五月蠅い。心なしか、不安と恐怖から息も上がっていた。朝の静寂に私だけが五月蠅い音を出しているような気分だ。
洗面所の水道を勢いよく流して口の中を漱ぐ。けれどそう簡単には味と匂いは消えなくて、私は何度も何度も口の中を漱いだ。口の端に付いた乾いた血もごしごしと洗い落とす。
「……なんなの、もう…っ」
誰かが来やしないかとびくびくと怯えながら、私は爪の間に入った血をどうにかして落とそうと頑張った。とにかく、記憶には一切ないけれどこの身についた証拠を無くしてしまいたくて、私は見つけたブラシで爪の間を何度も擦って血を洗い流した。
「はぁ……」
漸く私の身体に付着した血を洗い流せたことに安堵して、重い溜息がこぼれる。しかし、問題はまだ残っている。この私の寝巻に付いた返り血だ。べっとりと付着して乾いてしまったそれは、そう簡単には落ちる気配はない。とりあえず新しい着替えに腕を通したのは良いが、この血をどうやって落とそう。
研ぎ澄まされた聴覚に、静寂が襲いかかる。自分の荒い息と心臓の音だけが耳元で五月蠅く喚いていた。
ずっと水に触れて冷たくなった震える手で服に付いた血痕をごしごしと擦る。何度も石鹸を追加して赤い泡と液体が排水溝の中に吸い込まれていった。
「落ちない……」
時間をかけて何度も擦っても、その血の痕は落ちなかった。薄らとピンク色の斑点がいくつも散らばっていて、お世辞にも綺麗とは言えない。
――捨てるべきだと思う。けれど、これはマルコたちが私に買ってくれたものだ。私が自分で稼いで買ったものではない。それに、これを捨てたら彼らはどうして捨てたんだと訝しがるだろう。自分の身に何が起こっているのか分からないが、これではやましい事をしましたと言っているようなものだ。
今の私には、たぶん人間は襲っていないということしか分からない。希望的観測で、船で飼っている鶏を襲ったのだろうと考えているが、それの根拠は口の中にあった羽だけだ。
とりあえず、この寝巻は人通りの少ない資料室で乾かそうと決めた。ぎゅっと多分に水分を含んだ洋服を絞って手に持つ。
最後に鏡で自分の姿のどこもおかしくないことを確認して女子トイレの扉を開けた。
「よぉ、早ぇな」
「!!!?」
心臓が口から飛び出るかと思った。目の前にエースがいたのだ。咄嗟に手に持っていた寝巻を後ろに隠したが、彼は私が過剰に肩を揺らしたのを笑いながら指摘した。
「――どうしたの?こんな早くに」
「ああ、何か目覚めちまってな。便所に行こうと思ったんだよ」
ふわああと大きく欠伸をする彼に、内心酷く不安と恐怖に押しつぶされそうになりながらも、ごくごく自然に笑みを浮かべる。私は今、上手く笑えているだろうか。
「じゃあ、また後でね」
「ああ」
一刻も早く彼の元から去りたくて、私は曖昧に微笑んで彼の傍から逃げ出した。彼の姿が見える所までは何とか平常心を保って歩き続けたが、彼の視界から私が消えたと同時に私は資料室まで足音を殺して駆けた。
「はぁ…っ、はぁっ」
ばたん、と後ろ手に資料室の扉を閉めて、ずるずると壁に身体を預けたまま蹲った。

――危なかった。まさかエースがこんな早い時間に起きてくるとは思わなかった。

脱力してしまった身体に鞭打って立ち上がり、資料室の一番奥の方へ足を向ける。手前の窓を少し開けて風が入ってくるようにして、一番奥の椅子に寝巻をかけた。
まだ心臓がばくばくと五月蠅い。ぐったりと違う椅子の背もたれに身体を凭れかける。はあ…と大きな溜息を吐いて、私は部屋に戻ろうと立ち上がった。


2013/02/12


inserted by FC2 system