16:新しい風

 喉の渇きと飢えに耐え始めてから既に4年経っていた。最近は身体が常に怠い。昔ほど自由に身体が動かなくなっていた。とうとう他の身体の器官まで侵され始めたようだ。辛い。動物の肉だけでは足りない。もっと決定的なものを欲しがっていると分かっていながらも、人間と化け物の一線を越えたくなくて、私は未だに人間の血は吸っていない。近頃では、日中に食べておいたお肉だけじゃ物足りず、夜目が覚めた時に食堂から少し生肉をくすねている。本当はこんな泥棒みたいなことしたくはなかったけれど、このままでは理性を失って誰かを襲うか、自分が倒れるような気がして致し方なくこんな真似をしていた。
見つかったら何て言い訳をしよう、と思う。発見されることにびくびく怯えながら、それでも渇きを少しでも癒すために盗み食いをするのは止めることができない。
マルコたちに捨てられたくない。化け物だってことも知られたくない。ずっと、ずっと彼らと一緒に過ごしたい。
そう思うから、私のしている行為が、皆に対する裏切りのようで申し訳ない気持ちでいっぱいになる。生肉を口に放り込んで、その一瞬は気分が高揚するけれど、飲み込んだ後は惨めさで堪らなく涙が出そうになるのだ。
もう、やめたい。こんなことをしても、私は飢えが満たされるわけではない。けれど、人間であり続けたい。血を飲んだら全てが終わるのだ。それだけはしたくない、人間でいられなくなるのは、嫌だ。


 最近白ひげの縄張りで暴れている海賊がいるらしい。パパは世界屈指の海賊だというのに、命知らずな海賊もいたものだ。少々相手の動向に呆れを感じたが、暴れている海賊の船長の手配書を見せてもらって、吃驚した。
――こんなに若い人が船長なの?
私が白ひげ海賊団以外の海賊で知っている海賊の船長は誰も彼もそれなりに年を重ねていた。ああ、でも白ひげ傘下のホワイティ・ベイはそれなりに若かったかもしれない。でも、流石に、彼ほどではない。
――ポートガス・D・エース。通称、火拳のエース。
テンガロンハットをかぶった若い男。手配書に載っている彼の身体は一部分が炎になっていた。今の私よりいくつか年上に見える。私と大して年齢が変わらないのに、立派に船長を務めているのか。ええと、確かスペードの海賊団だったか。
「この若さでこの懸賞金か」
「高いの?」
後ろから、私が持っていた手配書をぴらりと奪ったイゾウがふんと鼻を鳴らす。私は懸賞金の基準をいまいち理解していなかったから、高いさと返した彼にふうんと頷いた。どうやら彼は七武海の勧誘まで蹴ったらしい。普通の海賊なら喜んで加入する筈なのに、彼はいったい何を考えているのだろう。そんなことを言っておきながら、私は七武海の優遇された環境をよく知らない。だけど、船長をしている彼が知らないわけはないだろう。
この男に関しては、隊長たちまでも少しぴりぴりしているから、いずれ近い将来に衝突するかもしれない。その時、パパはいったい彼をどうするだろうか。
どことなく、手配書に映っている彼の目が、私に似ている気がして一度顔を見てみたいものだと思った。


 暫くしないうちに、その機会は巡ってきた。どうやら、白ひげと旧知の仲であるジンベエがあの火拳と戦っているようなのだ。ジンベエとは一度か二度しか会ったことはないが、とても優しい魚人だった。彼はパパに大きな恩義を感じているらしくて、新しい娘だと紹介された時も、子供相手に丁寧に接してくれたのを私は覚えている。
七武海に入ってはいるが、彼の筋の通った武人としての信念や強さを、皆気に入っているようだった。そんな彼が白ひげの縄張りの島で火拳と戦っていることが私にとっては心配だった。
あの皆に強さを信用されているジンベエが敗けるわけはないと思う。けれど既にエースと戦い続けて5日目に突入しているのだ。その頃に私たちはその島に到着した。もう二人とも体力を使い切っているだろうに、それでも戦うことをやめない。
「エースー!!!」
ジンベエが先に倒れ次いでエースが倒れ、スペードの海賊団の男たちが彼の名前を叫んだ。
「俺の首を取りてえってのはどいつだ?」
霧の中から現れたモビーディック号の先頭に立っている白ひげを見て、スペードの海賊団は驚きと恐怖が入り混じった声を上げた。私は少し後ろの方でパパが彼らに話しかけるのを聞く。
戦闘の後の匂いがする。周りの大地が焦げた匂いや、彼らの流した血の匂いもする。すんと少し匂いを嗅いだだけで、どのような戦闘をしてきたのかを把握できた。
――喉が渇く。こんな風に血の香りを嗅ぐと、今にも理性が切れそうだった。誰彼かまわず噛みつきたい衝動が腹の内で暴れまわる。ああ、早く治まれ。そう願いながら、腕でもう片方の腕に爪を立てる。
そうこうしているうちにパパは船から降りてエースと向き合っていた。彼は仲間に逃げろと叫んで自分だけが残ろうとする。
――何をそんなに生き急いでいるのだろう。私のように、身体の内側に化け物を飼っているわけではないだろうに、彼は何のために自ら死ににいくようなことをするのだろう。
ぴりとした痛みを感じて爪を立てていた腕の袖を捲ってみると、血が出ていた。やってしまった。直接舐めずに指に付けた唾液をそこに塗る。そうすれば、その傷はすうっと消えてしまった。
これ以上この場面に立ち会うのは出来ないようだ。火拳の顔も拝んだことだし、私はここから近いマルコの部屋にでも閉じこもっていよう。これ以上血の匂いを嗅いでいると、本当に化け物が暴れ出しそうだった。
マルコの部屋に急ぐようにして戻った私は、ベッドに横になって布団を頭までかぶって、血の匂いから逃げるように目を瞑った。
「俺の息子になれ!!」
遠くで、パパがそう叫ぶのが聞こえた気がした。


 翌朝、私が目覚めた時にはマルコは隣にいなかった。いつもなら私が起きるまで待ってくれているのに、今日はどうしたのだろう。そう思って重たい身体を起こして彼を探す。何やら奥の船室が騒がしい。そちらへと足を向けてみれば、「エース船長をかえせええ!!」という男達の声が聞こえた。
「よっと」
「こんなもんか」
一際大きな破壊音が聞こえた後に、その部屋を覗いてみると、昨日のスペードの海賊団がその部屋の中で床に伏していた。唯一立っている二人が、私のよく見知った男達だから、きっと彼らがやったのだろう。
「二人とも、何してるの?」
「ああ、おはよう、
「こいつらが船長返せってうるさいんでな。ちょっと静かにしてもらっただけだよい」
何人もの男達が床にひれ伏している中で、マルコとサッチがこちらを向いた。確かに、床で昏倒している男達は静かだけれど、こんなことをしていいのだろうか。どうやら、二人の会話であの後のことを聞いた私は、彼らが新しい仲間になったらしいと知ったから、そんな心配をする。
とりあえず、彼らのことは二人に任せて、私はその部屋を出てマルコの部屋に戻ろうとする。だけど、途中でどんと肩をぶつかられてその足が止まる。悪いな、の一言もなく通り過ぎた男は、昨日パパに挑んでいった命知らずの青年だ。
「あ……」
「……」
彼は私の存在に気が付いていないのかふらふらと甲板まで出ていって、海を見渡しここが白ひげ海賊団の船の上であることを理解して、ずるずると床に座り込んだ。膝を抱えて顔を埋めてしまった彼に、同情心に似たものを感じる。蹲る前の彼の目は、私の目にそっくりだったから。
「ねえ、私っていうの。あなた、エースでしょ?」
「………だったら?」
とりあえず、仲間の安否だけは教えてあげようと思って、辛い日の光の下で彼の隣に腰掛けた。ピンク色のフード――因みに今日はブタのフードだ――を深く被ってなるべく日差しを受けないようにする。無視をするかと思ったエースは、暫くして顔を上げてじろりと私のことを睨んだ。
「今日から家族だからよろしくしておこうと思って」
「はァ!?」
彼から私に向けられている目は必ずしも良い意味が込められた視線ではないのに、別に不快だとは思わなかった。むしろ、彼といることが酷く楽な気がする。なんでだろうと彼の目を無視して考えていると、すぐに答えに導かれた。
――ああ、彼は昔の私を知らないから、いつもの私を演じなくて良いのだ。
いつも何を悩むことがあるのだろうといった体でにこにこしていた私を、この人は知らない。また、私が飢えで渇いている事も知らないのだ。だから、私は心配させまい、また知られないようにと笑顔を振りまく必要がない。
きっと、彼の目に私は酷く疲れているように、無気力にさえ見えるのだろう。ただ、目だけは爛々と何かを求めて異様に光っているに違いない。
「昨日、お前んとこの船長を襲おうとした奴に何言ってんだよ」
「パパが気に入ったから良いの」
心底理解が出来ないといった顔で私のことを見下ろしてくる彼にぼうっとしながら言葉を返す。ああ、そろそろ朝食の時間だと思って、私に何かを言っている彼の傍から立ち上がる。それは頭イカレてんじゃねえのか!?だとかだった気がするが、私はご飯を食べてくると後ろ手を振って食堂へ向かった。三食のご飯は私にとっての生命線だ。一度も逃すことは出来ない。出来るだけ多くの血をそこで得ないと、私の身体の中の化け物が暴れ狂ってしまうからだ。それを分かっていない彼は、言いたいことだけを言った私に鋭い視線を後ろから投げかけてきたけれど、私はそれを気にせず彼の視界から消えた。


 食事が終わって甲板に戻ってみると、彼はやはりそこでまだ俯いていた。彼の前から消えた後に、そういえば仲間の安否を伝えていなかったと思って再度伝えようとしたのだ。蹲っている彼は、きっとご飯なんて食べていないのだろう。先程の会話で何となく彼の性格がそこまで簡単なものではない事に気が付いた。
「エースの仲間は無事だよ。マルコとサッチが伸しちゃったけど」
「………知ってる。さっきそいつから聞いた…」
顔を上げずに返ってきた言葉に「あ、そう」と頷いた。大方そんなことをするお人よしはサッチだろう。そんな風に推測しながら、食堂から貰ってきたバケットを彼の前に差し出す。
彼の顔の前で、腕で顔を覆っているが見えるだろうと、ぷらぷらとそれを揺らす。そうすれば、何だよと怒ったような声が聞こえて、私はただあげるとだけ呟いた。
彼は中々それに手を伸ばさなかった。大概な意地っ張りだ、と思いながらじりじりと私の肌を文字通り焼こうとしてくる太陽の光に耐える。なんで、こんな男に構っているのだろうな、と思う。けれど答えは出きっていた。私と同じような目をしている人間を放っておけなかったのだ。つまりは仲間意識。
辛抱強く彼がそれを貰うことを待っていると、漸く彼が受け取った。私は受け取ったならもう用は無いとばかりに彼の前から去ろうとする。早く日の光が入ってこない所に戻りたかった。身体が熱い、倒れてしまいそうだ。
去っていく私に、彼が何か言ったようだけれど、日の光に怯えている私にはその声は届かなかった。


2013/02/06


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