15:孤独な戦い

 私は最近甲板にはあまり出なくなった。とはいってもそれは日中だけで、日が沈めば外に出てパパや仲間たちと顔を合わせることもある。日が沈むまでの間は大抵喉の渇きから気を逸らすために資料室に籠って読書か、船の下の方で洗濯をしている。
今日は洗濯物の方を手伝っている。ラクヨウの7番隊が本日の当番らしく、隊長である彼を除いた部下たちがいそいそと逞しい身体つきに似合わず洋服を洗濯していた。
「お嬢、もっと強く擦れ。そんなんじゃ汚れ取れねえぞ」
「うん」
「ほら、おチビ。もっと強く絞れ。そんなんじゃ今日中に乾かねえぞ」
「分かった!」
身体の大きな彼らに囲まれながら洗濯物を片づけていく。二時間ほど汚い洋服たちと格闘した頃に、今日の洗濯物は無くなり、あとは干すだけになった。とかく日の下に出るのが嫌な私は日焼け止めクリームをたっぷり塗った後、更に長袖のフード付きパーカーとジーンズという重装備で、彼らと一緒に甲板に向かった。
「あ、隊長!」
「おう、お疲れ。なんだ、お嬢も手伝ってくれたのか」
「うん、暇だったから」
向かった先では、ラクヨウがちょうどパパと仕事の話を終えた所だったようで、彼は軽く手を上げて私たちに挨拶をしてくれた。ぞろぞろと洗濯かごを持ちながら現れた私たちに、今日は良い天気だから早く乾きそうだなァなんてパパが笑う。
「ちゃんと皺伸ばしてから干せよ」
「はーい」
広い甲板の上でひらひらと楽しそうに洗濯物が揺れるのは見ていて楽しい。特にシーツなんかは大きいから、ばさばさと風に煽られて面白いことになる。一通り干し終わって、お駄賃として私は彼らからクッキーを貰った。本音で言えば、クッキーより血が欲しいのだが、そんな事は言えない。ありがたくクッキーを貰っておいて、後でココアと一緒に食べようと決めた。


――ぶふー。理想のピュイという軽やかな音ではなく、指と口の間から出た不細工な音に眉根を寄せる。私は今、友達を待っていた。友達といっても人間の友達ではない。少し前に腹を空かせていた一角を頭に持った大きなイルカに残り物の魚をやった所、とても懐いてくれたのだ。その子のことを私はレイと呼んでいる。女の子か男の子か分からないから、この音ならどちらでも通用すると思ったのだ。
彼(と仮定しておく)は私の指笛にならどんな音でも応答してくれる。いくら練習しても上達しない指笛に、彼はいつも応えてくれるのだ。彼は大抵船の傍で泳いでいるからすぐに私の所に表れる。ほら、数秒もしないうちに潮が近くで上がって、彼が来たのだと分かる。
「レイー」
「キュイ!」
彼は私の言葉を理解しているかのように返事をする。まあイルカは頭が良いらしいし、これも当然のことなのだろう。このイルカの友達はマルコたちには内緒にしている。何故なら私は内緒で彼に捕ってきてもらった魚の血を飲んでいるのだ。そんなことをしているとばれたら私は居場所を無くしてしまう。
「あ、ありがとう!」
「キュイキュイ」
角に刺さっていた中くらいの魚を絶妙なコントロールで私の元に投げたレイに笑いかける。私はそれを素早くかき切って喉に新鮮な血を流し込んだ。少しだけ喉の渇きが治まったような気がする。その後はレイに上げた。一口で食べてしまった彼に、やっぱりレイは凄いなぁと感慨深くなる。
大抵彼とこんな風に会うのは太陽が沈んだ夕方辺りである。なるべく人気が無い所で彼を呼び出して、その日の収穫物を分けてもらうのだ。


 自分が、血を欲していると分かった時から、私にはいくつか新しい癖が出来た。本能的に求めているその衝動をどうにかして抑えるために、私はまず拳を握る。それでも我慢できそうにない時は、指や腕を噛む。思い切り噛みついているそこには何日かしないと消えないような赤い痕が残っていた。
そんな癖のせいで、私はマルコたちと一緒にお風呂を入るのを止めてしまった。訝しまれないように、徐々に徐々に回数を減らしていって、今では一か月に一度一緒に入れば良いぐらいになっている。元々成長は遅いが、段々と女らしいような身体に成長しつつあるから、それで良いかと思っている。おかげで毎日身体をチェックされることが無くなり、私の腕には古いものから新しいものまでの赤い噛み痕が幾つも付いていた。消える前にまた作ってしまうそれは、もう仕方がないことだろう。その怪我に近いそれを不意打ちで彼らに見つけられないように、日中は肌を露出しないようにしている。日よけにもなるし、一石二鳥だろう。
そんなことを考えながら、私の視界に入ってくる男達をぼんやりと見つめていた。日陰であるそこは私にとって快適な場所だ。ただ、日陰でも長時間いることは辛い。あと持って一時間といった所だろうか。無意識に、目線が男達の露出した肌へ向かう。私の視力なら、少し離れた所からでもその肌の下にある血管を見つけることなど容易い。
ああ、あの色美味しそう。だとか、簡単に切れてしまいそうだとかと考えてしまう。無理やり彼らから視線を外してもまた、無意識のうちに目は彼らを追いかけてしまって、それを続けてしまうのだ。
まるで、今すぐ食べられるような所に食事が置いてあるのに、食べてはいけないと待てをくらっている犬のような気分だ。否、犬では生易しいか。私は既に2年以上待てを続けている。もはやライオンや虎に近いかもしれない。飢えたぐるるるると今にも唸り出しそうな腹を抱え、牛肉などの血でどうにか我慢をする日々を続けている。
今すぐ彼らの血を飲み干したい。喉の渇きも限界に近いが、空腹も酷かった。食事をしても治まらないそれは、たぶん私が必要としているものが体の中に入ってこないからなのだろう。
目付きが段々鋭いものに変わっていくのに、私自身は気付かなかった。まるで、獲物を見るような欲望にぎらついた目付きで彼らを見ている。ストレスや我慢から腕に歯を立てる。ぎりぎりと段々強くなっていく力に、通常の意識が戻ってきてゆるゆると力を緩めた。

――人間でいたい。

私が今辛うじて血を飲むことを抑えられているのは、その思いがあったからだった。今、人間の血を飲んでしまったら今までの努力が水の泡になる。いつまでも普通の人間のままでありたいし、家族を傷付けたくない。惜しげもなく愛情を注いできてくれた彼らの血肉を啜るなんてことは絶対にしたくはなかった。
腹の中で暴れまわるその凶暴な獣は解き放ってしまえば、それはもう快感なのだろう。今まで我慢していたものを一気に手に入れる様は気持ちが良いに違いない。けれど、私は理性の箍を外すなんてことにはしたくなかった。ただの獣に成り下がるくらいだったら、飢えで死んだ方がまだましだ。
そうして、私にとっては残酷なほどに時間はゆっくりと過ぎていく。


 最近、否。ここ数年間、は何かに悩んでいるようだった。彼女はいつからか、焦燥感に満ちた目をするようになっていた。けれどそれを見つけたとしても一瞬のことで、見間違えたのかと思ってしまう。この前、初めて彼女とサッチが喧嘩をして、仲直りをして解決したと思ったのだが、彼女の悩みはそれではなかったらしい。何かに悩んで、怯えているのなら俺たちに相談してくれたら良いのに。いつから、彼女はそんな風に物事を難しく考えるようになったんだろうか。子供の時は甘えっぱなしで、何かに付けては抱っこをせがむ様な子だったのに、いつの間に俺たちに頼らないような性格になってしまったんだ。
「マルコ、聞いてほしい事があるの」
そう言ってくれれば、俺はいくらだって彼女の言うことを聞いてあげるのに。彼女の敵になるわけがないのに。
ああして一人で何かを背負っている彼女を見ているのは辛い。けれど、彼女が詮索されたくないと思っているのだったらそのままそっとしておいてやるべきなのかと葛藤する。俺はどうすれば良いんだ。本当なら今すぐ彼女を問い詰めて何がお前を怯えさせるんだと訊きたくて仕方がない。そうなったら彼女はきっと答えてくれるだろう。しかし、その代りに俺たちとはもう二度と口を利いてくれないような気がする。そんな事になるのは嫌だ。けれど彼女の不安を取り除きたい。そんなジレンマが渦巻く。
夜中に何度も彼女が目を覚ますのは知っていた。目を覚ます度に水を飲んでいるのも知っている。それがもう何年も続いているのだ。心配しないわけがない。それでも彼女がそれを必死で隠しているから、俺はそれに気づいていないふりを続けている。
サッチはあいつの変化に気付いているのだろうか。あいつも曲りなりに彼女のことをずっと育ててきたのだから、感じ取ってはいるだろう。けれど、そこから先をどうしたら良いのか分からない。
これが単なる思春期だったら良い。あと少ししたら落ち着くようになって、また三人で笑いあえるのだったらそれで良かった。けれど、このまま放っておいたらそれは来ない気がする。
俺はどうすれば良いんだ。以前に比べて、俺たちとが共に過ごす時間は少なくなった。彼女にも自分の時間があることは分かっている。けれど、ずっと資料室に閉じこもっている彼女を、俺は好ましく思えなかった。
あそこに、彼女の不安の原因があるとでもいうのだろうか。分からない。探せば見つかるかもしれないが、それで彼女に失望されるのが怖い。結局俺は、彼女の為に何かがしてやりたいと思っていながらも、自分が拒絶されるのが怖くて動けないのだ。


――今日も彼女は夜、見えない何かと一人で戦うのだろう。


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