13:Dirty. Dirty! Dirty!!

 しゃかしゃかと歯磨きをする。鏡に映った私は、さも寝不足ですといった顔だった。
ぺっと口の中の泡を吐き出して水で口を濯ぐ。歯が綺麗になったかを確かめるふりをして、私は犬歯が異常にとがっていないかを確認した。
良かった。犬歯はどうやら伸びないようだ。まあ少し鋭いけれど、映画とかで見た吸血鬼のイメージには全く及ばない。
吸血鬼はにんにくに弱いと聞くけれど、別にそんなことはなかった。今日の朝ごはんの中にはにんにく料理があったのだ。匂いを嗅いでも平気だし、食べても問題は無い。後で研究ノートに書きこんでおこう。
私は自分が吸血鬼(仮)であることが判明してから、自分について知るために研究ノートというものを作った。それを毎日自分について発見したことを書きこんでいっている。もちろん、誰にも見つからないように資料室の最奥の本棚の後ろに隠してある。こういう時、自分の部屋が無いというのは不便だと感じた。
耐えがたい喉の渇きを感じながらも、ここ数年ずっとそれに悩まされてきた私は幾分かその感覚に慣れた。
マルコたちと一緒にいると、無意識に喉元や血管に目がいってしまうが、今の所自分の欲望を御しきれている。その分、お肉を食べる量は以前にもまして増えたが、その分野菜も食べるようにしていた。
そう、今の所は上手くやっているのだ。欲望が暴走することなく、私は内側の化け物を隠して生活をしている。
マルコやサッチとも以前と同じように円満な関係を保っていた。苦しいなりに落ち着いた日常を送っていた筈だった。けれど。


サッチに恋人が出来た。新しく入ってきた若いナースの女の子。ふわふわした長いブロンドがとても似合う可愛い女の子だ。サッチのタイプにドストライクなのは最初見た時から分かっていた。
こんなことは今までに何度もあった。どちらが悪いのかは分からないが、暫く付き合うと彼らは大抵別れた。だから、経験では今回もそんなに長い付き合いにはならないのだろうと分かっている。分かっているけれど、私の心はいとも簡単に平静を欠いてしまう。

――サッチの一番じゃなくなっちゃう。

そんな恐怖が心を蝕むのだ。只でさえ不安定な時期なのに、彼が恋人を作ったことで、私の心は荒れに荒れる。
これが単なる幼稚な嫉妬だったらどれだけ気が楽だっただろう。私のこの気持ちは嫉妬なんかではない。捨てられるかもしれないという恐怖や不安なのだ。私をずっと育ててきてくれた彼らの愛を失うことが、私にとって一番怖いことなのだ。あの迷子になった日以来、私の心の中にはいつも、意識していないだけでこんな思いが存在していた。赤子の捨てられるシーンがトラウマになっていたのだ。
恋人と私なんて比べるまでもない。絶対大切なのは恋人に決まっている。サッチは恋人が出来るとその女にとことん夢中になるタイプなのだ。子供の私なんて眼中にない。それが、酷く怖い。いつか、彼がその恋人と結婚することになって私が邪魔な存在になったら。俺はこいつと一緒になるから、お前はいらない。だなんて突き放されたら。それが怖くて、恐ろしくて仕方がないのだ。
二人の中で常に一番じゃないと捨てられる。そんな強迫観念が私の中にはあった。
「ねえ、サッチは私とあのナースのどっちが大切なの?」
そう訊きたくて仕方がないのに、いざ彼を目の前にすると貝殻のように口が閉じてしまう。怖いのだ、彼の口から「ナース」と出てくるのが。私の中ではずっとマルコとサッチが一番なのに、彼らはそうじゃない。私がいなくても生きていける。私は二人なしでは生きていけないのに。
いつからこんなに二人に依存してしまったのだろう。元々私は誰かに依存するような人間ではなかった。病院の中にいた時だって、それを自分の運命だって受け止めて母親に依存しすぎることも無かったのに。
それが、どうして二人には通用しないのだろう。私だって親離れしたい。父親はパパだけど、実質的な父親は二人だったから、私は今まで二人にばっかり構ってもらっていた。
でも、それではもう駄目なのだ。この獣を飼い馴らせるようになるまでは、あまり二人に頼りたくない。頼りたくない、自立したいと思っているのに、私はそれが嫌なのだ。彼らから離れたくないと駄々をこねている。
私にとって女の人は恐怖の対象だった。私を守って、愛してくれる大切な人を奪っていくかもしれない人間。醜くてずるい人間だと思う。たぶん、相手も私のことを好いていないだろう。マルコはそんな相手がいないから――私が分からない所で作っているのかもしれないかもしれないが――よく分からないが、サッチに恋人が出来るといつもその相手は私のことを疎んでいるような顔をする。サッチがいる時はそんな顔をしないけれど、私だけの時はそうやって私を拒絶するのだ。だから、女の人は嫌い。怖い。
ただ、サッチは恋人が出来るとすぐ分かるから、距離の取り方は取りやすい。けれどマルコはいるのかいないのかも分からない。そんな状態だ。たまに女物の香水の匂いをさせて帰ってくる時もある。けれどそれは、私の嗅覚の鋭さも相まって、匂いがきつく感じられるだけであって、ナースが控えているパパの傍にいれば当たり前のことなのだ。少し一緒にいただけでも香水の匂いは服に染みつく。
だから、恋人がいるかどうか曖昧なマルコとの距離の取り方が今一分からない。くっつきすぎて邪魔だと思われたら嫌だし、私のせいで恋人との時間が無くなったと思われるのも怖い。彼らに嫌われることに繋がるようなことは絶対にしたくないのだ。
――ああ、もうどうして、私はこんなに怯えているのだろう。飢えと渇きと恐怖で頭がぐちゃぐちゃだ。


 サッチに恋人が出来てから半年が経った。今までの交際期間と比べたら、今回は長い方だろう。
彼らの交際期間が更新されていく度に、私の心にはじわじわと恐怖が押し寄せる。サッチを、とられたくない。けれど、私にはサッチが求めているような大人の魅力は無い。胸だってお尻だってぺったんこのままだ。少しは膨らんできたけれど全然比べるまでもないし、大体私はサッチとそんな関係になりたいわけでもない。だから、どうすれば良いのか分からない。どうすれば彼は私に振り向いてくれるのだろう。
けれど、サッチは恋人との時間だけではなく、私との時間も大切にしてくれていた。
特に、一緒に寝ることは一度もサボってなんかいない。マルコが気を利かせてたまに私を預かろうとしても、彼は今日はと一緒に寝る日だからな、と抱き上げてくれる。そんな彼に何度涙が出そうになったか。そういう瞬間に愛されていると実感できるのだ。別に彼らの愛を疑っているわけではない。寧ろ有り余るほど貰っていると思っている。けれど、私は何故か分からないけれど無性に愛に飢えていた。愛されることを貪欲に求めて、この耐えがたい喉の渇きを忘れようとしているみたいに。
「サッチ、大好き」
「うん、俺もだ」
一緒のベッドで、私はよく彼にそう言う。そうすれば彼も頷いて私のことをぎゅっと安心させるように抱きしめてくれる。お願いだから捨てないで、とは言わない。言いたくても言えない。言ってしまったら、それこそ、捨てられてしまう気がして。
早く別れてしまえだなんて、思っていない。――嘘、本当は願っている。さっさと別れて、私の所に戻ってきてほしいだなんて醜い感情を持って、私は彼にしがみ付く。サッチは私のものなんかじゃないのに、彼は彼だけのものなのに。どうして、私はサッチのことが大好きなのに、彼の幸せを願うことができないのだろう。


 サッチの恋人のナースに呼び出された。彼女の名前はアイリーン。風にたなびくブロンドが美しい。
にっこりと笑って手招きされた私は、人気のない廊下に立っていた。見上げると、星が瞬いていて綺麗だった。
「私がサッチ隊長と付き合っているのは知ってるわよね?」
「…うん」
ぽつりと言葉を漏らした彼女。きっと、私のことを疎ましく思っているのだろうな、と彼女を見上げながらそう考える。彼女は白ひげ海賊団に乗ってまだ日が浅いけれど、船の連中に受け入れられるのも早くて、楽しく過ごしているらしい。
一目惚れだったの、と彼女は言う。まだ分からないかもね、なんて付け足された言葉に、だったらこんな15歳の子供捕まえてそんなこと言わないでよ。そう思った。
「私が、どれだけサッチ隊長の事を愛してるか分かる?」
「……」
「どうして……っ、いつもあなたを優先するのよ!こんな子供に、なんで私が敗けるの!?」
彼女の叫びを無言で聞く。こんな風に面と向かって言われたのは初めてだった。嫌われている、それは分かっていたが、いざこうして目の前であなたが嫌いなのよと言われると、私も好きではなかったのに心が痛む。つくづく我儘な人間だ。けれど、私だってサッチを渡したくない。彼女のような恋愛感情ではないけれど、サッチは、マルコは、私にとってなくてはならない存在なのだ。
「………」
「何とか言いなさいよ。……何よ?その目っ」
喉が渇いて気が狂いそうだった。特に今夜はそれが顕著に表れている。私のそんな色々な感情がごちゃまぜになった目で見上げられるのが気に食わなかったのか、彼女が怒りの表情を露わにした。
ぱしん、と乾いた音が響いて、次いで私の頬がじんじんと熱を持っていることが分かる。ぶたれた、と気が付いた時にはどんっと身体を押されて、大きな音を立てて床に転がった。
「あなたは邪魔なのよ!私が、あの人の一番になりたいのに…っ。あなたがいると、私は一番になれないの」
痛みで溢れた涙を拭うことも出来ずに、彼女は私のことを叩く。
私は、ただサッチとマルコの隣にいたいだけなのに、どうして叩かれなくちゃいけないの?
でも、体格差で彼女に敵わないのは分かりきっている。誰だ、吸血鬼は怪力だなんて書いたのは。全然私は怪力なんかではないじゃないか。
「本当の子供じゃないくせに!!」
「……っ!」
ばしんと彼女の平手打ちが私の頬に当たったのと同じ時、私の心はその言葉で同じくらい傷ついた。そんなの分かりきっている。私はサッチたちの本当の娘ではない。私を傷付けないようにと、小さな頃から少しずつ教えて来てくれたあの人たち。きっと彼らは私がそのことを本当に理解しているとは思っていないのだろうけれど、私はきちんと自分の立場を理解していた。だから怖いのだ。拾われただけの小娘。彼らがいなければ生きていけない私にとって、彼らに愛想をつかされるのがどれだけ恐ろしいか。
この人が、その私の心理を理解した上でこんなことを言ってきたのなら、間違いなく天才だ。こんなにも私は傷ついている。
「おい、何してるんだ!?」
響いた男の声に、彼女はびくりと肩を震わせた。その男の声は私たちが良く知っている声だ。
「サッチ……」
「おい、アイリーン!お前に何してんだよ!!」
叩かれて赤くなっている頬を抑えながら、私は憤っている様子の彼を眺めた。良かった、これでこの辛い状況から抜け出せる。そう思って彼女を見やると、彼女は泣いていた。
「この子…っ、私を海に突き落とそうとしたのよ!だから、仕方なく……っ」
「え?」
ぎょっとしたサッチと目が合う。その瞬間分かってしまった。彼が一瞬でも私のことを疑ったということを。
それくらい、彼女に夢中なのだ。もう、やだ。頭がおかしくなりそう。
「…本当なのか、?」
「――っ。知らない!!!」
「待てよ!!」
そう言って、もうサッチとアイリーンを見ているのが嫌で、私はその場から駆け出した。
サッチは知っている癖に。私がそんなことをする筈ないと。けれど、彼は彼女を信じたいのだ。私よりも彼女を選ぶのだ。やっぱり、私はサッチの中で一番ではない。ほら、待てとか言っているくせに追いかけて来てはくれないのだ。きっと彼女がサッチを引きとめて、サッチは私よりも彼女を取る。
酷い。あんな風に豹変して、サッチの前では泣きじゃくっている彼女が憎い。私が一方的にぶたれただけなのに、どうして、一瞬でも私が疑われなくてはいけないのだ。
「う…っく、ひっく」
とぼとぼと廊下を歩く。今日はサッチの所にもマルコの所にも帰りたくない。今日一緒に寝るのはサッチだったけど、あんなことになってしまったから顔を合わせたくなかった。
朝まで一人ぼっち。そう思いながら、今日寝る場所を探す。とにかく誰にも会いたくなかった私は資料室に向かった。ぎいと開けた先は真っ暗で、けれどはっきりと物の位置が判別できて、それがまたどうしようもなく涙を溢れさせた。
ごろり、とソファに横になる。上に羽織るものがなくて肌寒い。
惨めだった。私は何一つ悪くないのに、こうして誰もいない所に追いやられているようで、寂しかった。
喉がカラカラ。心が寒い。今日は、隣で温もりを分けてくれる人がいない。

一人寂しく、夜を過ごした。


2013/02/03


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