11:Kneel down on the blood.

――以前にもまして私の嗅覚は鋭くなった。以前までは料理の食材が分かる程度だったが、今では人間の微細な香りまで判別できるようになったのだ。この船に乗っているほとんどの人間が男だから、汗や男臭さを嗅ぐことになるのは必然的だが、それ以外にも何かよく分からない匂いを嗅ぐことがある。
それが人間から漂っているということは、ここ数か月で判明した。とにかく、汗とは違って良い匂いなのだ。その匂いの元を探すべく、私はサッチやマルコにべったりとくっついてみたが、その匂いはそこで途絶えてしまう。
この香りはいったい何なのだろう。その匂いを嗅ぐと、空腹を覚えるのだ。料理の匂いとは違うが、美味しそうな香り。私がその匂いについて知っているのはその程度だ。


「………」
喉が渇いた。日の当たらない所で読書をしていたのだが、喉がからからに渇いて集中できない。
日中にこの喉の渇きを覚えるのは初めてだった。ただの水分不足ならそれで良い。けれど、私はそうではないだろうと根拠のない自信があった。ぱたん、と本を閉じて立ち上がる。とりあえず、水を貰いに食堂に行こう。
「おう、。どうした?」
「喉渇いたの。お水ちょうだい」
食堂に入ると、既に昼食が終った後だから人気が少なかった。ちょうど皿洗いをしていた料理人がほらとコップを渡してくれる。ごくりとその水を喉に流し込むけれど、この渇きは癒えない。むしろ、悪化したようにそれを訴えてくる。ああ、もう。
苛々する自分を抑えて料理人にありがとうとコップを返す。そろそろ、この原因をきちんと考えなければ。
身体の内側から徐々に侵略されていくような気分だ。じわじわと、自分でも気が付かないうちに蝕まれていく、そんな危機感を持って、私はぎり、と拳を握りしめた。得体のしれない何かに、焦燥感は膨らむばかりだ。
このままではいけないのは分かっている。理由が分かればそれなりの対処方法は考え付くかもしれない。資料室にでも行って、ヒントになりそうな参考文献を探そうと、私は食堂を出た。


「とは言っても、いったい何を探せば良いんだろう……」
広大な資料室に到着して辺りの本を見渡す。何十年も航海しているだけあって、この船にはたくさんの蔵書が納められていた。めったに人が触らないような本だと、埃が積もっている。この中から私の求めている情報が書かれている本を見つけ出すには骨が折れそうだ。
とりあえず、喉の渇きをテーマにして参考文献を探していこうと意気込んだ。だが、この小さな身体ではせいぜい二段目の棚にある本までしか届かず、あちらこちらへと踏み台を動かすことになった。それだけでも十分疲労がたまるのだが、取り出した本はどれもそれなりの分厚さがあって、それを持っている腕がぷるぷる震える。
「おいしょ……」
四、五冊で腕の限界がきたので、近くにあったソファの上に下ろす。ああ、疲れた。小さい身体ってこういう時不便なんだなぁ。
とりあえず一息付こうと、ソファに横になる。ごろりと横になったそこは少し埃っぽくて、小さく咳き込んだ。ああ、この原因不明の喉の渇きを着きとめたら、この資料室を掃除してみようか。そんなことを考えながら手に取った本をぱらぱらと捲る。選んだ本はどれも医学書で、私には難解な単語が何度も出てくる。それの意味を知るために分厚い辞書まで取り出して、私は何時間もそれを読み耽った。


 けれど私の喉の渇きに関する解決につながるような重大な情報はどれも載っていなかった。長時間酷使した目を休めるように目頭を指で摘まむ。
――手がかりなしか。
落ち込みそうになったが、まだ始めたばかりだ。見つからないことが普通だろう。
よし、もう少し頑張ろう。そう意気込んだ時、甲板の方が騒がしい事に気が付いた。どうやら、私が集中して読書している間に何かがあったらしい。ぱたんと本を閉じてデッキに足を向ける。デッキに近づくにつれて、段々人数が多くなっていった。
「どうしたの?」
「ああ、命知らずにもこの船に奇襲をかけた奴らと戦ってたんだよ」
わいわいと賑わっている彼らのうちの一人に声をかけると、そう返ってきた。確かに、血の匂いがする。鉄臭いそれが、昔は嫌いだったのに、今は鼻先でくるくると私のことを惑わそうとしてくる。無意識にそれを肺いっぱいに吸い込んだ。
「マルコ!」
「ああ、お前どこにいたんだよい」
見慣れた後ろ姿を見つけて、彼の元に行く。彼はどうやら私を探していたようで、私を視界に入れると安心して強張っていた顔を緩くした。
どうやら既に敵の一味は壊滅させたようで、ぞろぞろと戦いに赴いていた男達が船の上に戻ってくる。良かった、大事にならなくてとほっと一息つく。
たぶん、私はその時その場から一秒でも早く逃げるべきだったのだ。敵だか見方のものかは分からないが、血の匂いが漂っているこの空間から、少しでも離れるべきだった。
息を吸い込む度に、血の香りが混ざった空気が肺に送られる。ぐるぐると身の内を侵略していくそれは、私の思考力を奪っているような気がした。
「おい、怪我人の手当をしてやってくれ」
「イテテ…腕切られちまったよ」
怪我をした男が一人船に乗り上げた。別に大した怪我じゃない、海の男ならそれくらい笑って流せる程度の傷。しかし彼が船に乗り上げた瞬間、一際血の香りが強くなった。その腕に付いた長い太刀傷に目が吸い寄せられる。彼の腕からはだらだらと血が流れていた。いつもより鮮明に見える赤に眩暈がする。くらくら、とその匂いに酔いそうになって、その血から目が離せない。
知らず知らずのうちに溜まった唾液をごくりと飲み下した時、はっと意識が戻った。

――私は、今何を。


 どくどくと心臓が五月蠅く騒ぎ出した。ぶわっと冷や汗が溢れて、唇を噛み締める。
私は、今とても最低なことを考えていた。あの血を飲みたいだなんて、何てことを。化け物ではないか。
仲間が血を流している、その様子から目が離せない。まるで身体が硬直してしまったように、それを一心不乱に見つめる。目を逸らさなくてはと思っても、身体は言うことを訊いてくれない。寧ろ、前へ前へ出ようとする身体を押し留めるので精一杯だった。
飲みたい。飲みたい。飲みたい。飲みたい。あの血を、満足するまで飲んでしまいたい。あの男の腕に噛みついて、枯れるまでその血を啜ることが出来たらどれだけ甘美なことか。あの肉を噛み千切ってまたそこから溢れた血を飲みこみたい。
「……」
、大丈夫かよい?」
――自分自身に吐き気がした。
腹の奥から今にも私自身を食い破って出てきそうな、凶暴なそれを必死に堪えていると、マルコが心配するように屈んで私の顔を覗きこんだ。真っ青だよいと呟いた彼は、きっと私が血を見て怯えていると思ったのだろう。私のことを抱き上げて、その噎せ返るような血の香りがする場所から連れ出してくれた。
その行動はとてもありがたかった。今の私は凶暴で飢えた自分を抑えることで精一杯で動けそうになかったから。
血の匂いが一切しない、マルコの部屋に入る。彼はお前にはまだ早かったよいと呟いて、私の身体をベッドに横たえて髪の毛を梳いてくれた。その優しい手つきは私を落ち着かせようとしているのだろう。それなのに、私は今すぐにでもマルコの腕に噛みつきたいという衝動を抑えるのに全神経を費やしていた。
からからと喉の渇きは益々酷くなった。血の香りがずっと鼻の奥で燻っていて、忘れることが出来ない。どくどくと未だ興奮している心臓は、どれだけあれが私にとって必要なものかを物語っている。ぎゅっと目を瞑ってその欲求から逃げようとする。だけど、気が付いてしまった欲望からは逃げることが出来ない。
しかし、私はそれを許すことは出来ないのだ。決して、大切な家族の血なんて飲みたくない。身体はひたすらあの赤い液体を求めているが、頭はそれを拒絶していた。飲みたいと思うのと同じくらい、飲みたくないという二律背反が鬩ぎあう。ああ、気がおかしくなりそうだ。
「喉が渇いた……」
「水、持ってくるよい」
待ってろ、と言い残して彼は出て行った。するりと身体に纏わりついていた彼の肉の香りが無くなる。それだけでだいぶ我慢できるようになった。
こんな欲望でぎらついた目を、マルコには見せたくなかった。ぎゅっと閉じていた目をそろそろと開ける。詰めていた息を吐きだせば、身体の中に溜まっていた血の香りも少し出て行った。
こんなこと、マルコやサッチに言えるわけがない。隠さなければ。隠さなければ、きっと捨てられてしまう。こんな化け物なんていらないと捨てられてしまうだろう。この船の皆も、こんな化け物と一緒にいるのなんて嫌に決まっている。絶対ばれないようにしなければ。この船の皆に嫌われたら、私は生きていくことが出来ない。彼らは私にとっての世界なのだ。彼らにとって私はいらなくても、私には彼らがいないと生きていけない。私に家族だと言ってくれるあの人たちに蔑まれたくない。追い出されたくない。捨てられたくない。
隠さなければ、こんなこと。絶対誰にも言わない。ばれるようなこともしない。私だけの秘密。ひたすらこの衝動を抑えて、我慢して、生きていかなければ。でなければ、愛しいあの人たちを失ってしまう。


 知りたいと思っていた。この喉の渇きの理由を。けれど、知ってしまったらそのことを酷く後悔した。こんな、知ってしまってこんな衝動が起きるくらいだったら知らなければ良かった。知らなければ、まだうやむやに生きて行けたかもしれないのに。
「喉が渇いた……」
惨めだった。こんな、人間の血を求める自分がどうしようもない化け物で、怖かった。

――なんてことだ。私は、私は、血を欲していたのだ。


2013/02/03


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