07:惑わす赤

 俺の息子――サッチが路地裏から拾ってきた小さな赤子は、今年で十一になる。
――時が経つのは早いもんだ。
最初は歩くことさえ出来なかった純白の赤子は、今では見違える程に綺麗な少女へと変貌していた。いつもマルコかサッチの後をついてまわる様はまるで雛鳥のようで、微笑ましかった。俺のことをパパと呼ぶ少女はそれはそれは、目に入れても痛くない程に可愛い存在なのだ。他の兄弟たちと違って、その少女だけが俺の事をパパと呼ぶことが許されている。パパ、と初めて言葉を発した時はオヤジだと訂正しようとしてもあまりの可愛らしい響きに口が動かなかった。以来、彼女は俺をパパと呼ぶ。今ではすっかりその響きにも慣れて、逆にオヤジと呼ばせなくて正解だったと思っている。あの小さな口から出るのが、パパの方が似合っていたからだ。
「なぁ、今年でお前も十一歳になるなァ。何が欲しいんだ?」
この少女の定位置はマルコかサッチの膝の上なのだが、今は特等席――だと彼女が嬉しそうに笑いながら以前言っていた――である俺の膝の上に座っている彼女を見下ろす。痛みのない彼女の白い髪を撫でつけると、彼女はにっこりと笑った。
「ケーキと皆がいればそれでいい!」
そう言って俺の事を見上げるは本当にそれだけを願っているようだった。海賊の娘なのに無欲な奴だ、と笑えば彼女はだって皆が一番好きなんだもんと聞いたこちらが嬉しくなるようなことを言う。偶々甲板に居合わせて、今の言葉を聞いていた男達はそれを聞いた途端に破顔してそうかそうかと嬉しそうに笑いだした。
ピジョンブラッドの赤い瞳が本当だよと俺を見上げる。それにそうかと笑顔で彼女の頭を撫でると、猫のように目を細めて享受していた。
「ああ、でももうそろそろ一人部屋がほしいなぁ」
ぽつりと、誰にでもなく呟いた言葉に、確かに彼女の年齢ならもうそろそろ一人部屋を与えてやるのは妥当だろうと考える。今はマルコとサッチの部屋両方で暮らしているようなものだが、思春期に入り始める彼女にプライベートなことが守れるような部屋は必要だろう。むしろ、今まで文句ひとつ言わずにマルコたちと寝ていたことの方が驚きだ。このような年頃の娘は何かと父親を疎ましく思うのだ。それをこの年になっても二人一緒のベッドで寝ていることや、一緒にお風呂に入るのは奇跡に近いだろう。
そうだなぁ、お前にもそろそろ一人部屋を与えても良いだろう、そう言おうとした言葉は急に甲板に現れた息子の「駄目だ」という声で飲み込んでしまった。
「マルコ」
聞いていたんだ、と純粋な驚きが含まれた少女の声が響く。一人部屋を貰うということは大して重要なことではないと思っているのだろう、は。だから軽い調子で呟いていたのだ。けれど、目の前の息子はそう受け取らなかったようである。彼の元から離れたがっていると考えたに違いない。すっと目を細めて微かに苛立つ様子で彼女の事を見ていた。
――こういう時、俺はのことが心底心配になる。本人は全く自覚していないようだが、彼女の宝石のような瞳は人を惑わせるような力がある。無自覚に相手を魅了し、時間をかけて絡めとり、気付いた時には逃げ出せないようにしているのだ。それはいずれ、その者を狂気に導く。
自分も彼女の瞳に囚われた者の一人だ。けれど、目の前の息子は自分以上に彼女に囚われている。瞳だけではなく、彼女そのものに囚われて執着していた。
彼女にはまだ気付くことのできない、怒りと独占欲でぎらついたその瞳が、俺には見通すことができた。
不安だ。いつか、この少女が人を狂わせるほどの自分の魅力で、彼女自身を危機に陥れはせぬかと心配だった。マルコに時たま現れるこういった感情を見ると、それが杞憂では済まないと考えてしまうのだ。
「どうして駄目なの?」
「お前はまだ自分で何もできないだろい。一人部屋なんてまだ早い」
純粋に疑問を感じた彼女は、そう言われて何か言いたそうに口をもごもごと動かした。が言いたかったことはたぶん、自分も以前に比べたら皆に役立つようなことをしている、といったことだろう。マルコだって知っているように、今では彼女は雑用を中心に手伝うようになったのだ。少しずつ自立しはじめた彼女は徐々に大人へと近づいてきている。しかし、マルコはそんな我が子の成長を認めたくは無いようだった。いつまでも彼無しではなにもできないままでいてほしいのだろう。この息子はが彼に依存している以上に、彼女に依存しているようだ。大方、サッチもこいつと似たような感じに違いない。俺はそんな息子の気持ちが分かっていたから、何を言うわけでも無く、二人の会話を聞いていた。
「とにかく、寝る時は必ず俺かサッチの部屋じゃなきゃ駄目だ」
「うん」
いつまでも大人に依存して生きていくだけではなくなりつつある子供は、そう言われて少し寂しそうに頷いた。きっと、本気で一人部屋を望んだのではないのに、それをマルコに頭から否定されたのが悲しかったのだろう。
この子供も何かマルコに言ってやればいいものを、どうしてこう自分の中に抑え込んでしまうのだろうか。だが、彼女が頷いたことによって、彼の凶暴な瞳は形を潜めたようだった。表面上は全く変わっていないが、一気に機嫌が良くなったことが分かる。
「ほら、いつまでオヤジの上に座ってんだよい。こっちへこい」
「ん」
ついには俺の膝の上にいることにさえケチをつけ始めた目の前の息子に、いったいどうしたものかと悩む。が従順に俺の膝からマルコの腕の中に移動したことによって、彼の機嫌が再び急降下することはなくなったけれど、彼女の身を案じた。
いつの日か、成長したこの少女を巡って、この船で何か大きくて不吉なことが起こるような、そんな気がするのだ。


「確かに、にはまだ一人部屋は早いな」
うん、とサッチは頷いた。それを見て、ほらみろと気分が軽くなる。既には寝付いていて、こうやって二人で酒を飲んでいた。
――昼間にが一人部屋がほしいと言っていたことには本当に怒りがわいた。あんなに幼い彼女が自分たちのもとから離れようとするなんて許さない。自分の身を自分で守れないくせに、そんな彼女に一人部屋を与えてどうするというのだ。男達が馬鹿な真似をして彼女の部屋に押し入るかもしれないし、何か間違いを犯すかもしれない。そんなことは絶対にあってはならない。
海賊の掟において、仲間殺しは罪だが、そんな事態が起こった暁にはその罪を犯してしまうかもしれないと思った。それもこれも、彼女を危険なことから守るためだ。自分で身を守る術を持たない彼女を守るためには必要なことである。
百歩譲って、彼女がそんな馬鹿たちから身を守る術を持っていたとしよう。それでも俺は彼女に一人部屋を与えるつもりは無かった。いつでも、どこでも自分の目の届く範囲内に彼女をおいておきたいのだ。でなければ俺の知らない所で何をするか分からない彼女に怒り狂ってしまいそうだから。
「まだは子供だからな、俺たちがいないと簡単に騙されるだろ?」
「そうだよい。別に皆を信用してねえわけじゃないが、万が一ってこともある」
ワインから焼酎に移った俺たちはお互いの意見に頷く。酒が入っていてもいなくても、結局のところ俺たちは自分たちの元から徐々に自立しようとしている彼女を認めたくないのだとは気が付かなかった。ひたすら彼女の為だと言いながら、本当は自分が彼女の傍にずっといたいからだとは思いつきもしない。
俺たちにとってはが一番で――それはもちろんオヤジを抜きにしてだが――あり、にとっても俺たちが常に一番なんだと信じていた。そしてそれがこれからもずっと続くという事も。


 自分でも覗き見ることが出来ない程深い腹の底で、何かが呟いている。
――絶対に手放すことか。あの時、俺たちが育てると決めた瞬間から、彼女は俺のものなのだ。他の女たちなど興味もない。彼女を知った瞬間から彼女以外の女など執着するに値しなくなった。良くて性欲処理。俺を捕えて離さないような存在はだけなのだ。彼女だけに溺れている。俺がこんなにも溺れているのだ、彼女だって同じくらい溺れていてくれなくては許せない。こんなにも慈しんで、大切に育ててきた少女を簡単に手放す訳が無い。あの、雪のように白い肌を穢した奴は問答無用で殺してやる。たとえそれが大切な仲間だったとしても、容赦はしない。だから毎日彼女の身体をチェックしなければ。誰かに汚されたらすぐに分かるように、俺がいつも確認しなければ。まあそうならないようにいつも俺が監視をしておけばいい話だが。
だが、もし、万が一そんなことになったら、彼女に手を出したことをこれでもかと言う程後悔させてやる。

――想うは、彼女の笑顔のみ。


2013/01/31


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