01:give me existence

 目を覚ました。目の前に広がる暗闇。手足は何となく動かすことが出来るが、布で包まれていてあまり自由とは言いがたい。
――私は、そこにいた。ただ、そこに存在しているだけ。泣き声も上げず視線を彷徨わせることもせず、私はただ暗闇の中でじっと息を潜めて何も無いその路地裏で空間を見つめていた。
「ギャアァ!許し―」
「許さねぇよ」
グシャッ、ビチャと何かが壊れる音が聞こえる。何だろう。でもこの状態の私に何が出来るわけでもない。コツコツ、と段々此方にやってくる跫音に、どこか他人事のように自分の未来を考える。
「……赤子か」
背が高くてガタイの良い男だった。私の視力とこの暗闇で相まって彼の容姿は金髪で白い服を着ていることしか分からなかったが、上から落ちてきた言葉は思いのほか柔らかかった。
「お前、捨てられたのか?」
「……」
私は答えることをしない。だって、言葉を喋れないから。何も言わず、抱き上げて顔が少し分かるようになった彼をじっと見つめていると、彼は突然涙を流した。それが涙だと思ったのは、彼の目がある所らへんから、何かきらきら光る液体が流れたからだ。
どうして彼が泣いているのか分からなくて、だけどどうしようもなく心を掻き立てられて、私は布に包まれた状態から片手だけをどうにかして取り出して彼の頬をぺち、と撫でてみた。撫でるというよりは触るに近かったかもしれない。
触れたそこは、やはり何か冷たいもので濡れていて、彼はやはり泣いていたのだと確信する。泣かないで、という思いを込めて、彼のことを見つめていると彼は益々涙を零して、私はどうすれば良いのか分からなくなってしまった。だって、大の大人の男の人がこんな風に泣くのを初めて見たのだ。戸惑うに決まっている。
「――お前は俺が守ってやる」
ぐいっと乱暴に目元をぬぐった彼は、にかっと眩しい笑顔を私に向けて、日の差す明るい場所に向かって歩き出した。


 その日は何故かいつもより早く目が覚めた。だからと言って思考がぼんやりするわけでもなく、また眠くなるわけでもないので、俺はそのまま起きることにして甲板へ向かった。
今は新世界のある島に停泊しているところだ。ざざ、と打ち寄せる波は朝日でいつもよりきらきら輝いているように感じる。揺らめいている様は酷く現実主義な俺でさえも歌を歌っているのではないかと思える音を奏でていて、元より細い目を更に細めた。
――クオォォォォン
「あれは……!」
遠瀬の方で白い巨体が潮を吹いている光景が視界に入り、俺は思わず声を上げた。
――白鯨。この船の名前になっているモビー・ディックがはるか遠くでも巨大に見える姿で悠々と泳いでいる。
こんな動物がどうしてこんな所にいるんだよい。伝説上の生き物とさえ言われている白鯨が、今まさに目の前にいる事実が普段は落ち着いている心臓を五月蝿くさせた。日の光は益々強くなり、反射した水面は黄金色に光った。
黄金色の海を泳ぐ白い鯨。その様子があまりにも神々しくて、俺はぞわりと腕に鳥肌が立った。今すぐにでもオヤジや仲間たちを起こしてこの光景を見せてやりたかったが、小さな音を立てることさえ戸惑うようなこの空気のなかでは、ただじっと白鯨の様子を見守るしかない。
――何か、特別な予感を感じた。言葉で説明できるものではないが、これは何かのお告げのような気がした。
実際の時間としては五分もなかっただろう。しかし、白鯨が俺の視界から消えるまでの時間が、俺にとっては何時間にも感じられた。時が止まっているような不思議な感覚だ。
白鯨が去った後の海は、またいつもと同じように水色や青やらできらきらと揺らめいている。まるで、さっきの光景が幻であるのだというように。
漸く夢見心地の状態から正気へと戻った俺に、船の反対側から聞こえる悪友の声が鼓膜を揺すった。


「おーい、マルコ。早いな」
「サッチ…お前こそ早い帰りだよい。で、その手に持ってんのは何だい?」
きらきらと光る海に浮いている(というよりは浜辺に乗り上げているといった方が良いかもしれない)巨大な船に連れてこられた私は、サッチと呼ばれた男に抱き上げられたまま甲板にいた。目の前にはマルコと呼ばれたパイナップルみたいな髪形をした男が立って私のことを睨み付けている。
赤ちゃん相手になんて顔をしているんだ。私が何も理解できていない普通の赤ちゃんだったら今頃彼の顔を見て泣いていただろう。
「俺、こいつのこと育てることに決めた」
「はぁ!?」
サッチは私のことをぎゅっと抱きしめたままそう言う。マルコはそんな彼に犬や猫みたいなもんじゃねえんだよい!?と正論を投げかけるが、サッチは分かってるっつーの!と不貞腐れた顔になった。
「とにかく、元置いてあった場所に返して来いよい」
「嫌だね」
はぁとため息を吐き出した彼に、サッチはあっかんべーと舌を出す。その様子にカチンときたのか、マルコがサッチの腕の中にいる私を取り上げようと彼を追いかけ始めた。
「お前、オヤジに何て言うんだよい!!さっさと戻して来い!」
「うるせー!俺はもうこいつを一人前に育てるって決めたんだよ!!」
ぎゃあぎゃあと騒ぐいい年した男たちの声を聞きながら、私はどうしたものかと考えた。たぶん、私はあの場所に戻されたら一日も経たずに死んでしまうだろう。ここがどのくらいの治安なのかは分からないけれど、こんな歩くこともできない赤子が生きていける場所ではないことぐらい、この平和ボケした脳みそでもよく分かる。
けれど。ちらりと私を抱きかかえてくれている彼を見上げて考える。彼が私のことを育ててくれれば、私は命の危険が無くなる。けれど私はこの人の人生を狂わせてしまうだろう。いつでも私という存在がついて回って彼のある筈の未来を壊してしまうかもしれない。
それならば、こんな心優しい人の負担になるくらいなら、孤児院にでも入れてもらった方が気は楽だ。だけど、私にはそれを伝える術はない。まだ歯も生えていないこんな状態で、ろくに口を動かせるわけではないから。
「ったく、捕まえたよい!」
「あ!テメッ」
急にぐいっと引っ張られる感覚がしたと思ったら、私はマルコの腕の中にいた。彼の腕の中で、私は彼と目が合った。きれいな、綺麗な青い色の瞳。眠そうな瞼の下から覗くその色は何か特別なものを感じた。サッチの青とも違う、彼の瞳。そう、例えるなら、サッチの瞳は海で、マルコは空のようだ。それほどまでに澄んだ青色。すぐ傍でサッチがもっと優しく抱けよ!!と叫ぶ声が聞こえるが、それはどこか硝子越しに聞こえているような感覚だった。
それはどうしてか分からないけれど、マルコも同じだったようで、ずっと私の目を見ていた。お互いが、お互いの目に吸い込まれてしまいそうな錯覚を覚えたとでもいうのだろうか。
ぼうっとしていたマルコからサッチが私を取り上げると、漸く彼の様子は元に戻ったようだった。
「綺麗な色だろ?まるで薔薇みたいだな」
「……そうだねい」
薔薇?どうして私の目が薔薇なのかは分からないけれど、先程とは打って変わって落ち着いてしまったマルコが不思議だ。いったい先程までの勢いはどうしたんだろうか。
「とりあえず、オヤジに報告するよい」
どうやら私はこの人たちの親に報告されることになったらしい。


「朝から元気だと思えば、お前らそんなことしてたのか」
「すまねえ、オヤジ。五月蝿くして」
赤子を抱き上げたサッチが苦笑いしながらオヤジに謝っている。赤子はコイツの腕の中で静かにじっとしている。最初、オヤジが赤子を目に入れた時、軽く目を見開いていた。たぶん、サッチが赤子なんてものを抱えていることと、赤子の容姿が類い稀なるものだったからだろう。赤子は白髪で赤眼だった。混じり気のない、本当に雪のように真っ白な髪。肌も同じくらい白くて、二つある大きな赤い目がまるで宝石のように輝いていた。俺もさっきこの目と合った瞬間は吸い込まれそうだと思ったものだ。薔薇のように真っ赤なこの瞳に、俺は囚われてしまった。生まれて幾日しか経っていないだろうに、赤子はまるで自分に関して話しているのだと理解しているようにただじっとオヤジのことを見つめている。赤子はもっと自由気ままに泣きわめくものだと思っていたのだが、違うのだろうか。
「母親らしき人物はいなかったんだな?」
「ああ。路地裏に一人ぽつんと置かれてたよ」
当時の状況を詳しく聞かせろと言うオヤジにサッチが答えている間、俺は赤子ばかり見ていた。会話が耳に入るが、入ってすぐに抜けていってしまう。俺の視線に気が付いたのか、赤子の赤い瞳が俺を見つめる。笑うでもなく、泣くでもない。ただじっと俺のことを見つめていた。
「今日からこいつは新しい家族だ。で、名前はあるのか?」
「ありがとうオヤジ!」
どうやら話は落ち着いたようだ。名前は?と聞かれたサッチが知らねえと答えている。オヤジが付けてやってくれよと言う彼の顔はとても嬉しそうだ。
「それじゃあお前は今日からだ。」
か〜良いなぁ、お前オヤジに名前を付けてもらって!俺が一人前に育ててやるからな」
すりすりと赤子、の頬に己の頬をくっつけている悪友。その顔はだらしがなく緩みっぱなしで、こんな奴だけでを一人前に出来る訳がないと思って声を上げた。
「お前だけじゃ心配だよい。俺も育てる」
「お、お前…あんなに反対してたのに……。ありがとうな!」
じーんとしているサッチのせいでこっちが照れる。そんな俺達にオヤジは「何言ってんだ、この船の全員で育てりゃ良い話だろうが」と言って、グララララと豪快に笑った。
「サッチ、を抱かせろ」
「ああ」
オヤジからしてみればなんてものすごく小さくて、そんなを傷付けないように抱き上げようと伸ばした大きな手が随分と気をつけているようでそれが微笑ましい。オヤジも何かを怖がるのだなあと思った。
「小せえなあ」
「オヤジに乗ってると尚更だよい」
少しだけ起こした上体にが乗せられ、親父の大きな手が支えている。オヤジの身体に乗ってしまうと、本当には小さなボールのようだ。
「あう、あー」
「何か喋ってるぞ!」
「分かってるよい」
オヤジに支えられながら何か言葉を発しているに全員の視線が集中する。まだ首が座っていないからは顔をぺたりとオヤジの胸にくっつけているしかないけれど、その顔がにっこりと笑っている様子を見て、俺たちは嬉しくなった。だって、初めてが笑ったのだ。赤子が笑うというのはやはり嬉しい。純粋な笑顔で何かが浄化されたような気持になる。
「俺に抱かれて笑うなんて分かってんじゃねえか」
「やっぱオヤジは偉大だなあ」
グララララとオヤジが笑うと、彼の胸に乗っているは振動で揺れてまたそれでにこにこしていた。
もしかして、早朝の白鯨はこのことを暗示するためこの海域に現れたんじゃないだろうか。この白鯨と同じように真っ白けな赤子が俺たちの新しい家族になることを教えるために俺に姿を見せた。そんなことを考えてしまうほど、今日の出来事は不思議で、また俺たちは常よりかなり気分が高揚していた。


2012/01/10


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