58 きみとただ息をするようにしたかったものが、恋だ

 アリシアがカクを殺そうとした瞬間は寿命が縮むかと思った。今でも、心臓が歪に跳ねている。アリシアが考えていることは分かる。それが、私を慮った結果なのだということも。だけど、私はその行為を許すことが出来ない。
だから命じた。手を出すな、と。これは私の問題であって、彼女に守られてばかりいたくないのだと。彼女は今、湧き立つ殺意を抑えるべく、私達から離れて壁際へと寄っている。
床に腰を下ろして、じっとカクの顔を見つめた。傷だらけでボロボロなのにどこか、穏やかな様子さえ感じる。
――涙が溢れた。
そっと、血を流した彼の頬を撫でる。私の体温よりも、僅かに高い彼の熱が手の平に伝ってくる。その手を下に滑らせて、首を触れば確かに脈打つ血液。
涙で視界が歪んで、彼の顔が見えない。涙が邪魔でぽろぽろと落とせば、それが彼の頬にぱたっと落ちた。その僅かな衝撃に、彼は目を開く。どこかぼんやりとしていた彼が、私を見上げた。
「何で泣いとるんじゃ…笑えば良いじゃろ」
ふっと小馬鹿にした様子で口を開いた彼。お前を裏切ったわしが、あの男に敗けたんじゃ。喜べ。淡々と吐き出された言葉に、尚更涙が溢れる。カクのばか。
「喜べるわけないじゃん…ばか…」
どうしてそんなことも分からないのだろう。怒りを覚えて、彼の頬を思い切り抓る。彼が弱々しく痛いと呻いた。
「怒りのままに、わしに止めを刺せば良かろう。わしは……もうお前の友人失格じゃ」
一度瞑目して、再び開いた彼の目ははっきりと私を見据えた。その目からは、何も感情を読み取ることができない。
先程のゾロとの会話での、殺し屋はつぶしがきかない、と言ったカクを思い出す。それは任務に失敗した時点で、その者は組織から消されるということ。きっと、CP9として生きてきた彼だから、誰よりもそれを理解しているのだろう。なんて哀しい言葉だろうか。
「何で、そんなこと言うの……」
カクを殺せるわけないじゃない…。吐き出した言葉は声が震えて、彼に届いたかどうか分からない。
あの時の気持ちは、もう二度と味わいたくない程に苦しいものだった。皆に裏切られたと分かった時には悲しかったし怒りも沸いた。いつぞやに見て記憶に残っている、LILYが恋人から裏切られる場面。きっと、彼女もこのように傷ついたのだと思った。だけど、私は悲しくて泣けてきても、腹が立って彼らを殴りたくても、それ以上に、まだ彼らの友情に縋りつきたかった。私のことを友達だったと認めてもらいたかった。それだけで、きっとこのささくれた心は少しずつ癒えていく。
彼は、私の言葉にじっと耳を傾けるのみで何も言わなかった。
「お前には償いきれんことをした。そんなわしを許すと言うのか?……余りにも、愚かじゃ」
ややして、彼から発せられた言葉には冷たい響きが孕んでいた。私ではなく、大きく傾いた塔の隙間から見える空を見上げる彼に、今度はべちんと頬を叩く。だが、直後にその痕をそっと撫でた。
「ばか…。喧嘩しても別れてもっ、何度でも仲直りできるのが友達でしょ!?」
その言葉に僅かに彼が目を見開いた。空から、私へと視線が移る。真っ黒でつぶらな瞳。その目を見つめて、震える唇で恐る恐る吐き出す。
「…カクはもう、私と友達でいたくないの…?」
恐ろしかった。彼の言葉を聞くのが。私の一方通行な想いであったら、と思うと心が千々に破けてしまいそうだった。もし、この言葉への返事がイエスだったら、もう私はカクとの友情を諦めなければならない。
だけど、やだ、やっぱり諦めたくない。お願いだから、私のことを友達だと言ってよ。
はぁ……。彼が溜息を吐いて一度瞑目した。何か葛藤しているように眉間に皺を寄せ、再び瞼を開く。
は、本当に…愚かすぎるわい…」
彼がぽつりと呟く。その声は擦れていたけれど、先程とは違い嫋やかさを含んでいる。優しい、声だった。裏切ってからは私の名を呼ぶことも無くなったのに、彼は今確かに名を、呼んでくれた。その声に、悟る。
わぁっと子供のように声を上げて泣いた。ぼろぼろと零れる涙を拭うように、彼が動かすことも難しい身体で腕を持ち上げる。彼の手には力が入らなくて、私の頬を撫でるように触れるだけだったけど、その手の暖かさから、余計に涙が止まらなくなる。
――彼は、私を友だと認めてくれたのだ。
「生きててくれて、良かった…」
嗚咽を堪えて、ずっと胸に秘めていた言葉を紡げば、カクは唇を微かに震わせ、その眦から一筋涙を流した。ぱたり、と地面に染みができる。
「すまん……裏切って悪かった…」

ぼろぼろ、と己の顔に涙を大量に降り注ぐ少女。わしらが、CP9の任務の対象として裏切った少女。
彼女に、自分の本当の気持ちを伝えるのは、あまりにも都合が良すぎて考えることすら躊躇われた。どうして、裏切ったのに、彼女を想うことが許されようか。許してもらう為に自分の想いを伝えるなんて、絶対にしたくなかった。
だが、ずっと心の奥底では願っていた。彼女の無事を。ルッチが故意に彼女を見逃した時、心底安堵した自分を押し殺した。何て、都合の良い感情だろう。エニエス・ロビーまで連行してきたのは自分たちだと言うのに。だけど、それを全て許すと彼女が言う。くしゃくしゃの顔で涙を流す彼女が、わしの情を求めている。そんな光を目の前に照らされてしまえば、その光に手を伸ばしたくなってしまった。闇の底にいたわしを照らす、温かい光。これを、望んでしまった。手に入れたいと思ってしまった。
「生きててくれて良かった」
かつて、任務の対象者にこのようなことが言われたことがあっただろうか。殺し損ねた人物などいないが、彼等は皆死ぬ間際に怒りや軽蔑、嫌悪の籠った眼差しでわしを睨んだ。そして、恐れた。
その言葉にぐっと、胸を締め付けられた。彼女のそれがあまりにも愚かだと分かっていながらも、涙が出てくる。どうして、彼女はここまでわしの心を捕えるのだろう。
わしらの生を望む者など、いる筈がなかった。いたとしてもそれは利便性からだ。あまりにも純粋に、当たり前のようにわしの命を尊いものとして扱ってくれる彼女に、感情がぐちゃぐちゃに暴れ回る。
ぎゅううと圧迫するように胸が切なく疼く。涙を流してわしを案ずるへの愛おしさが溢れて、胸が破裂しそうだった。
――好きじゃ……好きじゃ、
彼女の眦から零れ落ちる涙が、真珠のようにきらきらと光って見える。今まで、彼女のことは友人だと思っていた。だけど、もうそれは変わった。生まれて初めて、他人にこんな感情を抱いた。
好きで堪らん。抱きしめて、その涙を拭ってやりたい。そして何より強い思いは、もう二度と彼女を裏切りたくない、という決意。もう二度と、こんなことで泣かせたくない。
「…のぅ、――」
「とりあえず、応急処置しなきゃ」
先程とは違い、涙が徐々に引っ込んできた彼女の声が重なって、わしの言葉は続かなかった。思わずこの思いを口にする所だったわしは、それに安堵してああと答える。彼女はわしの言葉の続きが気になったようだけれど、何でもないわいと返す。こんな状態で彼女に伝えても恰好が付かないから。
「服、脱がすね」
「――っ」
ごしごしと彼女の涙で濡れた顔を彼女の服の袖で拭かれてから、テキパキと上の服を脱がされていく。それに思わず声を上げそうになった。今まで女を抱いたことは何回もあるし、その度に裸を見られていた。しかし、上半身だけとは言えに見られるのとではそれの捉え方が違った。ちらりと彼女を盗み見てみれば、彼女は真剣な様子で、照れている様子など一切ない。
――そうじゃ、はあの保護者たちのせいで男に慣れ過ぎとったんじゃ……。
慣れている、というよりは男という生き物が家族として傍にいることが当たり前すぎて、意識していないといった方が正しいだろうか。それでも、自分だけ羞恥心を感じているのが、何だか恨めしい。
麦わらの一味の剣士に大きく切り裂かれた胸部と腹部を見て、彼女の眉が悲痛気に寄る。
「ちょっと気持ち悪いかもしれないけど、ごめんね」
彼女の何が気持ち悪いのか分からなかった。しかし、ぺろりと胸の上を這った生暖かいものに、びくりと肩を跳ねさせる。ぎょっとして視線を自分の胸にやれば、彼女が自身に覆いかぶさり小さな舌を懸命に動かして、唾液を塗っているではないか。ぬるり、と温かい舌が肌の上を滑る。
――!?わ、拙い。何やっとるんじゃこいつ…!!
カッと一気に身体の熱が上がるのが自分でも分かった。傷口を舐める彼女の舌がぴりぴりと痛覚を刺激するのに、何故かそれが腰にダイレクトに熱を伝える。まずい、まずいこの状態は非常に拙い。自分の想いに気付いた途端これだ、自分の意志に反して身体が勝手に反応する。今は傷を舐めるのに必死になっている彼女も身を起こせばわしに何が起こっているのか分かってしまうだろう。今までにない程動揺して、冷や汗が背中に伝う。しかし、突如壁際から膨れ上がった殺気に、身体の熱が吹き飛んだ。首を動かすことは出来ないが、あれの出所はの従者だろう。彼女の殺気がビリビリと肌を刺激するのは気分の良くないものだったが、今はそれがあって本当に助かった。
「とりあえず、表面だけ塞いだよ」
「え、あ…本当じゃ」
彼女がごしごしと袖で唾液を拭いてからわしの上から退いていく。それに心底ほっとしながら熱の冷めた顔で首から下を見てみれば、彼女の舐めた所が綺麗に塞がっている。吸血鬼にはこんな力もあるのか。多少、吸血鬼の能力を知っていたが、まさかこれ程便利な能力があるとは思わなかった。だが、傷は表面でしかくっ付いていない為、なるべく安静にして療養することが必要だと彼女が言う。それに頷いて、彼女を見上げた。わしの視線に気付いた彼女がゆるりと瞬いて、きょとんとしながらその赤い瞳でわしを見つめる。
――愛しい、赤じゃ。
今までにない程、じっくりと彼女の目を見つめて、その赤を堪能する。
出会った当初はこの目に捕えられた。まるで、宝石のように煌めくその瞳は、誰彼かまわず惹きつける魅惑的な色をして。今も、そう思う。だけど、過去より更にその瞳に心を奪われる。それは、わしが彼女に恋心を抱いたから。何よりも、この少女を愛しく感じているから。
「カク?」
不思議そうにわしの名を呼んだ彼女の声。その音の心地よさに、うっそりと笑った。もっと、もっと。
――もっと、わしの名を呼んどくれ。


2015/04/09
生まれて初めてを、君に捧げる。

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