57 純粋すぎた君へ

 私は、一体どうしたんだろう。薬が身体を蝕んでいるわけではない。呼吸だって、脈拍だって正常だ。なのに、この場から動くことができずに、ただ黙ってこの戦いを見ていることしかできなかった。
ナミとウソップはサンジに言われた通りロビンを助けに走って行ってもういない。そしてサンジもまたあの狼と戦うために廊下へと消えていった。
――動けない。まるで、金縛りにあったように、目の前でカクとゾロが鬼気迫る様子で刀を交える光景を見つめることしか出来なかった。ガキィィン、キィイン!!呼吸する暇さえ与えないような刀同士の乱舞に、彼らは徐々に体力を失いつつあった。
震える手を胸の前まで持ち上げて、それを押さえるように握り締める。
――ああ、やっぱり、私は…。
最後の瞬間だった。“周断”を繰り出したカクにゾロが三面六臂の阿修羅になり、その斬撃を霧散させる。
――苦難上等。好むものなり、修羅の道。
彼が体勢を直すより前に、ゾロが刀を構えた。
「阿修羅一霧銀!!!!」
彼の刀がカクの身体を切り裂く。震えた。彼は、私を裏切ったのに、胸を締め付けられる。ドサリと大の字に倒れた彼は、震える手で鍵を取り出し、ぽろりと落とす。ぱたり、と地に落ちた腕。閉じられた瞳。
――もう、駄目だった。

キリンの攻撃を受けながらも、周囲への注意は怠らない。視界の隅でじっと佇んでこちらを見守っている。ここへ来た当初は加勢をするつもりだったのだろうが、今では全くその様子もない。少しでもそんな素振りを見せたなら「手を出すな」と言っただろうが、彼女は何かに耐えるように拳を握ってただ、俺たちから目を逸らさなかった。
キリンがふざけているのかと思うような攻撃を繰り出してくるが、ふざけている訳ではなかったようだ。お互いに、徐々に体力を失いつつあるのが分かる。しかし。
――このキリン、無自覚だろうか、攻撃しても斬撃が彼女の元にいかないようにしている。命を懸けた戦闘の最中にそんなことが出来る程人間器用ではない。俺は、彼女が自分で避けるものとして攻撃を放っているが、この男はそうではなさそうだった。
――俺は良く知らねェが、お前、アイツのこと裏切ってここまで連れて来たんじゃねェのかよ。
彼女がどうなっても良いのではなかったのか。疑問に思うものの、それを口にしたりはしない。キリンは俺がに意識を向けていることに気付いて、同じく彼女にちらりと視線を寄こした。だが、一瞬のことだ。もしかしたら彼女は気付いてすらいないかもしれない。
「戦闘中に余所へ意識をやるとは余裕じゃのぉ」
「テメェも誰かさんに斬撃当たらないようにしてんだろうが」
戦闘の音で紛れる程度の声で、刀を交える際に相手を煽る。それにキリンは「はて、何のことやら」と本当に分かっていない様子で俺を見返す。何だ、本当に自分がやっていることに気付いていないのか。
しかし、だからと言って攻撃の手を休めるつもりはない。この男が持っている鍵を奪わなければ、ロビンは助からない。胸の前で祈るように手を握り締めて、今にも泣きだしてしまいそうなが視界の端で映る。
――何つう顔してんだ。お前を裏切った男相手に。
直感で、彼女の祈りは俺ではなく目の前の男に向けられているのだと気付いた。だが、もう止まれない。止まる気もない。彼女が悲しもうが、泣こうが、俺はこの男を倒す。
「周断!!」
「阿修羅一霧銀!!!」
倒れ伏す、男。キリンの姿から人間の姿へと戻り、己の敗けを認めて鍵を取り出した。ガレーラからの若旦那の言葉“クビ”という旨を彼に伝えれば、彼は暫く黙りこんだ後に困ったわいと呟いた。
意識を手放した彼を確認して、佇んでいるのもとに向かう。後ろに立っている彼女の従者は無表情に俺を眺めていたが、は今にも零れるのではないかと思う程目に涙を溜めて、俺とカクを見ていた。
「……鍵、良かった、ね」
壁の穴から外へ向かおうとする俺に、彼女が下手くそに笑みを作る。それに、言葉が詰まった。ナミの涙はよく見ていたから慣れている。だが、ここ数日の付き合いしかない彼女の涙はナミとは全くの別物だった。複雑な思いが鬩ぎあっているのだろう、と流石の俺でさえそれには気付く。いったい、何と言葉をかければ良いのか。
「おうマリモ!!鍵はどうした!!?」
「ああ、今貰ったとこだ」
丁度そこにエロコックがやって来た。彼は背を向けている彼女の様子にはまだ気付いていないようで、これでロビンちゃんを助けられると再び闘志を燃やしている。俺は、そのままこの部屋を出ることにした。優しい言葉を選ぶのは得意じゃねェ。女の涙だって、そうだ。彼女が自分のしたいようにすれば良いと思った。もう、ここには敵がいないのだから。
「アリシアちゃん?ちゃん…?」
この場から動く様子のない彼女たちに、訝し気にサンジが声をかける。アリシアは返事はしないものの、こちらにちらりと顔を向けたが、は俯いたまま。
「放っておけ」
「ハァ!?」
やはり、言葉の選び方を間違えたようだ。心配気なエロコックが怒りに燃えた顔をこちらに向ける。ったく、めんどくせぇな。何やら騒がしい彼の言葉を無視して、今度こそ間違えないようにと口を開く。
「元々ルフィはお前がいなくてもロビンを助けるつもりだったんだ、好きにすりゃ良い」
「……」
ゆっくりと俺を振り返った彼女は、やはり先程と同じように目に涙を溜めて、眉を寄せている。それに、俺だけでなくエロコックまで動揺するのが分かった。ああ、だから女の涙は嫌なんだ。調子が狂う。
「友達だったんだろ。言いてぇこと言ってこいよ」
本当に、調子が狂う。こいつは、俺たちとは少しの付き合いしかないが、平生の彼女はにこにこと笑って、ルフィたちと馬鹿騒ぎしているような女だ。当初は彼女のことが信用できなかったけれど、今ではもうそんな気持ちなどない。彼女は警戒するような人間ではない。だから、いつものように、笑っていれば良い。泣き顔なんて、見せるな。どうすれば良いのか分からないのだから。
「……ありがとう、」
へにゃり、と涙が浮かんだまま微笑んだ彼女に、微かに心臓が跳ねた。たった数日の彼女しか知らないが、このような笑みを見たのは初めてだ。しかし、今は時間がない。俺はぽかんと呆けている馬鹿な男を引っ張って、ロビンのもとへと急いだ。

様は愚かだ。自分を裏切った人間を許すなど、御身を破滅へと導くだけでしかない。だが、それは彼女の心が何よりも優しいから。彼女はもう、この男を許している。彼女の顔を見て、察知した。剣士とあの男の戦闘中も何かに耐えるように眉を寄せ、小さな手を握り締めていた彼女。その顔に、怒りなどなかった。嫌悪も無かった。ただ、彼らを案じる様子だけがその瞳から溢れていた。
愚かだと思う。だが、それと同時に愛しさも感じる。彼女は、私には無いものを、持っている。それは彼女の弱さにつながるかもしれないが、そのままの主でいてほしい。不変を望んでいた、あの保護者たちの心が今なら分かる。
今のままで良い。それで彼女が危険に曝されるというなら、従者である私がその危険を排除すれば良いだけのこと。私が非情さを捨てなければ良い。たとえ、そのせいで彼女に恨まれることになっても。
――だから、今ここでこの男を殺す。
ゆらり、と壁際から罪人と、彼の傍に佇む彼女へと近づく。
様は彼の罪をお許しになったが、私は人間にそんな生易しい感情を抱かない。彼らがしたことは、吸血鬼界における最大の罪。生かしておけるわけがない。また、彼女を裏切ることだってありえる。今この瞬間なら彼は瀕死状態であるし、完璧に抹殺することが出来る。
2人に気付かれぬよう、手を硬化させる。心臓を抉れば瞬時に死ぬだろう。
「――…!」
最速で男の心臓へと爪を突き立てようとした。だが、その腕を主にガッと止められ、目を見張る。私の腕は彼女の死角であったにもかかわらず、止められた。まさか、一瞬の殺気に気付いて瞬時に阻止したのだろうか。
なるほど、私が彼女をよく理解しているように、彼女もまた私をよく理解していたということか。
様……なぜ、」
「アリシア…」
それならば、止めないで欲しかった。主への危険を完璧に排除することが出来る、絶好のチャンスだったのに。多少の不満を込めて彼女の名を呼べば、彼女は僅かに私の腕を握る強さを強くした。私の名を呼ぶ声に、抑圧的な響きが含まれる。
――私を怒らせないで。
ぞくりと身体が震えた。部屋に、彼女の気が満ちる。これは、畏怖か。空気までもが、わなわなと震えた。振り返った彼女のルビーの瞳が、ぎらりと光り、私を見据える。
彼女の身体からは、“王”としての威厳が溢れていた。それに自然と膝をつく。
「御意…」
無意識の行動だった。頭を下げ、彼女の言葉を享受する。彼女は、そんな私の様子を見て緊張を解いたようだ。私はこの男への殺意を鎮めようと、身を震わせる。少しでも手を伸ばせば届く距離にいる罪人を目の前にして、心臓は五月蠅く喚いた。
彼女が明確な王としての“意志”を持って命令したのはこれが初めてだ。今までのものは一人の人間としての“お願い”程度のものだったが、これは紛れも無く命令だった。それならもう、私には逆らうことが出来ない。身体に流れる血が、王に従うことを望んでいるのだから。
王としての風格を発揮し始めた彼女に、恍惚とした思いが胸を支配する。私が、あの幼帝をここまで育て上げたのだ。仲間たちはきっと驚くだろう。
彼女は誰もが認める、吸血鬼の王だ。


2015/04/09
ただ、守りたかった。

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