38 真珠の涙

「うう……」
暗闇が、私を包み込む。ここは、どこ。くるりと辺りを見渡すとそこはいつの間にかモビー・ディック号の上だった。見知った顔の男たちがわらわらと私に集まってくる。彼らは皆一様ににこにこと笑っている。そんな彼らに何故か不安が頭を擡げた。なんでだろう、胸騒ぎがする。きょろきょろと男たちをかき分けながら目的の人物を探す。
「マルコ!」
「ああ、。そんなに慌ててどうしたんだよい」
特徴的な髪形をした彼を見つけてたたたと小走りで駆け寄る。彼は先程までの男たちと同様に笑顔で私を出迎えた。彼はいつもどおりなのに、何かが違う。咄嗟に彼から身を引く。違う、これはマルコじゃない。
「どうした?
「……違う。ねぇ、サッチはどこ?」
何時の間にか周りの男たちはいなくなっていた。マルコと私しか甲板にいない。サッチ?サッチ?何度も彼の名前を呼びながら走る。後ろからマルコが私を追いかけてきたけれど、途中でぴたりと立ち止まる。
「サッチ!サッチ!どこなの!?」
「――ゼハハハ!!、サッチはここにいるじゃねぇか」
ひたすら彼から離れていた私の耳に、背後からあの男の声が届く。くるりと振り返ると、マルコが徐々にティーチに変わっていくではないか。ティーチの前にはサッチが立っている。私の方を向いて、彼には気付いていないようだった。
「サッチ…逃げて…」
私の震える声は何故か彼に届かなくて、身体も動かなくて。なんで。早く動いてよ、私の身体なのに!!早く!サッチが刺されちゃう!!
「サッチィ!悪魔の実は俺がいただいてく!!」
彼の背後から腹部にぐさりとナイフを突き立てた。ゼハハハハ!!!と耳障りな声が響き渡る。サッチは彼の腹部から飛び出た刀身を見て、みるみるうちに顔が悔しさと絶望で染まっていった。
「お前じゃなくて、良かった……」
倒れる間際に呟いた彼の言葉は、私を絶望に突き落とした。
――視界が、赤で染まる。
「いやああああああ…!!!」


 びくり、と身体が震え私は目を覚ました。震える喉で荒くはっはっと息をしながら、辺りを目だけで見渡し、誰も起きていないことを確認する。どうやら悲鳴は上げていないようだった。女部屋の一角に吊るされたハンモックの上で、私はゆるゆると溜まっていた息を吐きだした。
――なんて嫌な夢だ。
何度もこれに似た夢は見てきた。何度も、何度もサッチが目の前で刺されるのに助けられない夢。その度に私は頭がぐちゃぐちゃになる。どうしてサッチの異変にすぐ気付けなかったのか。どうしてティーチを信じていたのか。どうして、私はサッチに大嫌いだなんて言って傷付けてしまったのだろうか。
ずっと、ずっと好きで愛していたのにあんなことで彼を傷付けて。彼が植物状態になる前にあんな喧嘩をしてしまったことを私は後悔していた。
ハンモックの下で丸まって寝ているアリシアやナミたちを起こさないようにそっとハンモックを降りて部屋を出た。
――あんな風にサッチと喧嘩するんじゃなかった。すぐに謝りに行こうとすれば良かった。そうすればサッチの危険にも気付いたかもしれないのに。あの、あの黒い男さえいなければサッチは船を降りなくてもすんだのに。どうして、どうして。私はどうして、家族を守れないの……!!!!
怒りと悲しみで涙が出そうになる。ぐっと唇を噛んで、それを堪えた。
――あの男が憎い。黒ひげが、憎い。
握り締めた柵がみしりと悲鳴を上げた。咄嗟に手を離して、ごめんと小さな声で謝って、そっと撫でる。もっと早くにこれくらいの力を手にしていたら、過去は変わったのだろうか。
ちゃん」
「…サンジ」
頭上から落ちてきた小さな声に上に目をやれば、彼が見張り台から下りてくる所だった。ああ、彼に見つからないように出来るだけ気配を消していたのに。


 すたっと甲板に降りて女部屋の近くに佇んでいた彼女がこちらに来るのを待つ。すっと向けられたピジョンブラッドの目が爛々と暗闇の中で妖しく光るのに、ごくりと生唾を飲み込んだ。
何だか、今の彼女はとても気が立っているようだった。昼間のような優しい雰囲気ではなく、今はただひたすら怒気と、そう、焦燥が窺える。
「眠れないの?」
「…違う。気にしないで不寝番を続けて」
ほら、この数日のうちに一度も見せたことがないような彼女の冷たい態度に、益々俺は彼女を放っておけなくなる。ぴりぴりと敏感になっている彼女を触発しないようになるべく優しい声で、ここで俺は放っておくのは紳士じゃないからねと彼女に伝えた。
しかし彼女はふいっと顔を背けそのまま甲板を後にしようとした。
「――何に、そんなに焦ってんだ…?」
思わず、彼女の肩を掴んで俺の方に向かせた。声はなるべく抑えようとしたけれど、もしかしたら眠りの浅い者たちには届いたかもしれない。彼女は俺のその行動に酷く苛立った様子で俺を見上げた。否、苛立ちの対象はきっと俺ではなく、先程から彼女の精神を不安定にさせているものだろう。
「ストレス溜まってんなら俺が相手になりますよ?お姫様」
「……」
こんなやり方紳士失格だろうが、黙り込んでいた彼女が俺を見上げ好戦的に笑ったのを見て、彼女にとってはこれが正解だったのだと悟る。彼女はただでさえ修行熱心だったから、身体を動かせばストレスも少しは軽くなるかもしれないと思ったのだ。
――溜め込まないで、吐き出してくれ。
そう思ったのと同時に彼女の拳が俺に向かって繰り出された。


 女性に手を上げられないサンジを相手に力を出すのは卑怯かもしれない。だけど、今はそんなことを考えられないくらいに気分が昂ぶっていた。破壊衝動と怒り、自責の念に駆られて私は頭がぐちゃぐちゃだった。
重りが付いている分必然的に力は重くなるが、動きが単調だからか先を読まれて受け止められてしまう。しかし、私の体術はそこまで弱くない。
私の拳を受け止めた彼が声にならない呻き声を上げた。ああ、これではサンジの脚が折れてしまう。そう心の奥底では彼を心配する声が上がるのに、私はそれを無視して次々彼に蹴りや拳を繰り出した。彼はそれをなるべく避けて、どうしても避けられない時にだけ受け止める。
月が私たちを照らす。醜い私の本性を青白い光が暴いているようだった。
ふと、彼に踵落としを食らわせようとした時に、このままでは甲板を破壊してしまうことに気付いた。流石にそれは許されないだろうと私の意識がそっちに向かったのを彼は目ざとく気付いて、私の軸足を掬った。痛みを感じずにぐらりと姿勢を崩した私の身体。一瞬、あの時の――サッチと決闘をした時のことが頭に過る。彼も、あの時私を傷付けないようにして私を負かしたのだ。
――私が体勢を立て直そうとするよりも前に、彼が私の身体に覆いかぶさって、私を閉じ込めた。しかし丁寧にも私の頭が床にぶつからないように頭の下に手を添えて。どさり、と2人して甲板に倒れ込む。
ちゃんっ!さっきも聞いたけど、何を焦ってる?」
「……」
彼の必死な顔、それは私のことを本当に心配しているようで。
――何を焦っている?
その言葉が心の底に波紋を生む。今までずっと我慢していたものが、溢れ出した。
――苦しい。苦しい苦しい苦しい苦しい……!!!!!!
どんっと彼の胸を叩いて、ぎろりと彼を睨む。宛ら彼を通り抜けて、あの憎い男を見据えているように。
「憎いの……!!!!」
いつの間にか熱い涙が頬を伝っていて、鼻がつんと痛くなる。彼は私を見下ろしたまま、何も言わない。自分の喉から声にならない悲鳴が零れる。我慢しても抑えられなくて、私は拳を握りしめた。
――くそ……!!あの、黒い男は…ッ、自分の欲望の為にサッチを刺して逃げたんだ!!!!
「あいつは…!!自分の、野心のために…ッ、私を拾って、育ててくれた人を刺したの!!!!」
――サッチは、植物状態になった。しかも、よりによって私は彼と喧嘩してしまって、仲直りしていなかった。
そのことを震える声で吐き出す。懺悔に近い。私が悪いわけではない。だけどきっと私の行動も少なからずその結果を招くものだった。
「泣いたら、本当にサッチが死んじゃうんじゃないかって…!だから、今まで我慢してきてっ」
燃えるように喉が熱い。ずっと、ずっとこの想いを秘めてきた。そんなことを考えていればきっとマルコは鋭いから気付くし、仲間たちを心配させてしまう。ただでさえ心配されていたのだから、これ以上彼らの負担を増やしたくなった。
「…うん、苦しかったね」
彼はそう言って私のことを引っ張り起こした。床に座り込んでいる私にちょっと待っててと伝えてダイニングに向かう。数分して彼が戻ってきた頃には私の涙も少し収まってきて、彼はハンカチとマグカップを私に渡した。マグカップの中にはホットミルクが入っている。
「我慢することは悪いことじゃない。だけど泣くことで楽になることだってあるよ」
だから、これからはあんまり我慢しすぎないで。そう加えた言葉に無言を返す。彼の言うことは尤もだ。実際、胸に閊えていた重みが、泣いたことによって少し軽減している。だけど、だけど私は思い込みが強いから。だから彼の言うことが正しいと分かっていながらもまた我慢するかもしれない。
口に含んだホットミルクはほんのりと甘い。はちみつ入りだよ。そう微笑む彼にまた収まりかけていた涙が溢れそうになる。涙声になりながらも美味しい…と返した。
「ありがとう…」
「どういたしまして」
何が、とは言わない私だが彼はたぶん全て分かっているのだろう。サンジは優しい。きっと、こういう所を女の子は好きになるのだろうなぁ、と先程より平穏が訪れた心でそう感じた。


2014/01/30

君の涙を星屑に変えよう。

inserted by FC2 system