32 悪夢だったら良かったのに。

 エースがモビー・ディック号を飛び出していって二週間が経った。未だ次の島に着く様子はないが、以前の白ひげ海賊団の空気が少し変わってしまったのに、船員たちはどことなく気付いている。
それは、あの陽気な4番隊隊長サッチが植物状態になり、2番隊隊長のエースが裏切り者を追って出ていってしまったから。そして、それと同じくらいに、何かに憑りつかれたように特訓をしてめきめきと成長しているが、彼らの心配の種だった。
そして、それを一番近くで見ているマルコも、同じようにその心配を抱えている。
「そろそろ休憩にしようかねい」
「もう?まだまだ私は疲れてないよ」
今では一枚200キロのリョウコウ石を四肢に付けている彼女。今まで彼と拳を交えていた彼女ははあはあと息が上がっていて、どこをどう見ても疲れていないようには見えない。ぽたぽたと彼女の額から汗が滴り落ちる。それでも尚、特訓を続けようとする彼女に彼は強制的に座らせた。
「何か冷たい飲み物でも持ってくるよい」
「ん……ありがと…」
疲労を含んだ笑みを返されて、彼は彼女に言った通りトレーニングルームから出て食堂に向かった。その途中で彼は思考の渦に巻き込まれた。最近、は休む暇もないくらいに特訓をしている。それのおかげで格段に強くはなっている。だが、その反面彼女の心は今にも壊れそうな気がしてならない。サッチがあんな風になって、ずっと眠り続けているのに、彼女は笑顔を絶やさない。辛いなら泣けば良いものを、何故か彼女はあれから一度も涙を見せていないのだ。きっと、仲間たちに心配をかけまいとしているのだろう。本当に、どうしてこんなに不器用な性格になってしまったのだろうか。
「料理長、水くれよい」
「ああ」
食堂で洗い終った皿をふいていた彼に頼む。何も言わなくても二つ分用意されたグラスにありがとうと返して、彼は彼女の元に向かった。


 私の毎日の日課は、マルコたちとの特訓が終った後にサッチの所に行き、今日一日にどんなことが起こったのかと話すことだった。相変わらず彼は目を覚まさないけれど、何もしないより話しかけている方が早く目覚めてくれそうな気がして。
「でね、今日はね、マルコを思い切り蹴ることが出来たの。800キロも重りを着けてたのにだよ?すごいでしょ」
ね?と微笑みながら彼を見る。手術後よりは少し顔色が良くなった彼は、どことなく笑っているように見えた。きっと、目が覚めていたら大きな成長だなァと賑やかに笑って私のことを撫でてくれていたのだろう。
「サッチ、私もっと強くなるから。早くサッチたちを守れるくらいに強くなる」
――だから早く目を覚ましてね。
ぐっと眉が寄って、目頭が熱くなる。涙は出ない。否、出さない。もうこのことでは泣かないと決めたのだ。今度泣く時は、彼が目を覚ましたことに嬉し泣きするのに取っておくのだ。


 エースが船を出てから一か月が経った。もうそろそろモビー・ディック号は次の島に着くそうだ。私はその日が来てほしくなかった。だって、サッチと別れなくてはいけなくなってしまう。一生の別れではないと、マルコは言った。だけど、私たちは滅多に会うことが出来なくなってしまう。それこそ、サッチが目を覚まさなければ一生、彼の方から会いに来ることはないのだ。
そんなの、嫌だ。ここにいた方が皆で彼を守ることが出来るのに。でも、彼の負担を考えたらそう考えるのは当然のことなのだろう。
「サッチ、早く目を覚まして」
このままじゃ、もう会えなくなっちゃうよ…。静かに眠っている彼にそう祈る。だけど、次の島に着いても彼は目を覚まさなかった。
「お嬢…、俺たちが必ずサッチ隊長を守るから」
「だからさ、心配すんなって」
「そりゃあ、そんなこと言われても心配しちまうと思うが…」
次の島――ナーグ島に着いて、とうとうサッチとの別れが決まった。私の目の前には五人の男たちが立っていた。
彼等は皆、何かしらサッチに深い恩義を感じており、4番隊の中でも特に彼と仲が良かった男たちだ。だから、安心して彼らに預けよう。絶対、彼らだったらサッチを裏切らない。最後まで彼を守ってくれる。そう信じることにした。
「うん、サッチのことお願いね……」
こくりと頷いて、担架に乗せられているサッチを見下ろした。もう、暫くは会えなくなってしまう私の大切な人。
口を開けば、行かないでという言葉で出てきてしまいそうで、私は何も言わずに彼の額にキスをした。
「オヤジ、行ってくる」
「ああ、気を付けて行けよ、お前ら」
慎重に船を降りていく彼ら。サッチの顔は穏やかだ。大丈夫、きっと大丈夫。必ず目を覚ましてくれるから、だからその時までに私は皆を守れるくらいに絶対に強くなる。
泣かないと決めたのに、徐々に遠ざかっていく彼らの姿を見ていると涙が溢れてきて、必死に溢さないように前を見続けた。隣に立っていたマルコが、そっと私の肩に手を回してくれて、その熱が余計に私の涙を誘発した。


 それから一週間程経って、私は夕食を食べて自室に戻った後にふとエースのことが心配になった。今までずっと自分のトレーニングで命一杯だったから、彼のことを思いだすのは久しぶりだった。今頃どこにいるのだろうか。もう一か月以上経っているから、もうティーチに追いついたのだろうか。でも、きっとまだ辿り着いてはいないだろう。この広い海をどこに行ったのかと探すのはかなり骨が折れる筈だ。
――エース、大丈夫かな。会いたいなぁ。
ちらりとベッドに横たわっている状態から、机の上に置いてあるガラス箱を見る。その中ではしきりに動いているエースのビブルカードがあった。
――これを使えば、エースのもとに…。
。俺だよ」
突如こんこんと扉をノックされて私は小さく肩を揺らした。どうして、今私がマルコの部屋でなく自分の部屋にいると分かったのだろうか。私は扉まで急いで向かい、それを開けた。
「ハルタ」
「よっ」
にっこりと笑って彼を部屋に入れる。彼は椅子に座って私の顔をじっと見た。私はベッドに腰掛けて彼を見つめ返す。何だか、ハルタと久しぶりに会った気がする。今まで自分のことしか見えていなかったのに、彼が訪れてくれたことで少し客観的になったのかもしれない。
「お前とこうやって話すのって大分久しぶりだな」
「うん、言われてみたらそうかも」
ずっと自分の力を高める為に特訓ばっかしてたもんね。そう言うと彼は全くだと笑った。私はそれに苦笑で返した。きっと、私のことを心配してやって来てくれたのだろう。彼は私のことを見て、どことなく安心しているようだったから。
「特訓もほどほどにな。倒れてもらっちゃ困る」
「うん、無茶はしないようにするよ」
彼をこれ以上心配させないように笑顔で頷く。なるべく元気に、私が悩んでいる様子もないことを表す為、不自然にならない程度に楽しそうに。ただでさえ、サッチのことで私は皆から心配の目で見られているのだから、ここで元気だということをアピールしておかないと。
――彼と暫く話して、彼はそろそろ帰ると言い帰って行った。私はそのままベッドに横になって天井を見つめた。最近はよく夢を見る。その内容はよく覚えていないけれど、私にとって悪いものだった。魘されている私を何度もマルコが起こして、あやしてくれる。いつもそんな状態では彼がいざという時に本領を発揮出来ないかもしれない。そんな迷惑はかけたくないから、このままここで寝てしまおうか。この部屋を使っているアリシアも私がテレパシーでお願いをすれば頷いてくれた。彼女には申し訳ないけれど、彼女にはサッチの部屋で寝てもらおう。
「おやすみサッチ、エース」
この船にいない彼らの名を呼ぶ。どうか、今頃彼らも穏やかに眠っていれば良いと、そうであってほしいと願った。


 煙管に口を付け、ふうと息を吐く。煙が宙に漂い、香る。夜も更け、そろそろ寝ようと化粧を落とし、髪も下ろし寝巻の浴衣に着替えたイゾウは、就寝前の一服を楽しんでいた。
隣の部屋では久しぶりにあの吸血鬼の女ではなく、が眠っている。珍しいこともあるもんだ。常であれば彼女はマルコかサッチの部屋で寝ているのに、何故。
――まあ、たまには一人で寝たい時だってあるだろう。そう結論付け、俺は寝台に横になった。
「……っ……!!…!」
しかし、ふと聞こえる小さな声。それは隣の部屋から聞こえてくる彼女のものだ。寝言だろうか。微かに聞こえる程度の彼女の声は、独り言に近い。
「いやあああ…!サッチ!…サッチ!」
身を切るように叫ぶ、彼女の擦れた小さな声に、とうとう俺はがばりと起き上がり急いで部屋を出た。
くそっ!やっぱりこいつは元気にしているように見えても、心の中ではずっと悲しみを抱えていたんだ。
乱暴に彼女の部屋に入り魘されている彼女を起こす。
「殺してやる…っ」
「おい、!」
がくがくと彼女の肩を掴んで揺する。彼女は数秒後に目を覚ました。カッと目を見開いて、何が起こっているのか分からないのか、暫く宙をぼんやりと眺めて、最後に俺に気付いた。冷や汗でぺったりと額に張り付いた彼女の前髪を整える。
息を乱して俺を見つめている彼女の心臓が、ばくばくと鼓動を打っているのが聞こえてきそうだった。
「大丈夫か?」
「………うん」
はぁ…と大きく息を吐きだした彼女を見下ろす。十分に時間を取って頷いた彼女は、ごめんと謝った。
「何がだ」
「うるさくて起こしたでしょ…?」
申し訳なさそうにそう言った彼女にまだ寝てなかったさと返す。今にも泣きだしそうに瞳を潤ませている彼女はしかし、ぎゅっと目を瞑りそれを堪えているようだった。どんな夢を見ていたのかなど、言われなくても分かる。彼女にとっても俺たちにとっても忘れることが出来ないあの悪夢だ。
俺はゆっくりと瞬きをした。今日は彼女を悪夢から守るマルコはいない。彼女は一人で朝を迎える。
――果たしてそれで良いのか。彼女を、この暗闇に一人にするのか。
がたりと椅子を彼女のベッドの脇に持ってくる。その様子に彼女が不思議そうに見つめる。俺は椅子に座って腕を組んで言った。
「寝ろ。悪夢を見ねぇように見張っといてやる」
彼女は一瞬きょとんとしたが、ありがとうと彼女は微笑んだ。目を閉じ、寝る体制に入った彼女を見やる。こんなことをするのは大切な妹だからか、それとも――。
分かっているのは、きっとこれが彼女以外の女だったら、ここまで心配しないということ。
――お前が悪夢を見ねぇように傍にいてやる。

そう素直に言えない不器用な彼は、一夜限り彼女を悪夢から守る騎士になる。


2013/12/05
君だけの獏になろう。

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