21 一時的にさようなら

 アリシアがモビーに乗ってから既に二か月が経過した。
様、そのお姿のまま十分歩き回ってください」
「う、ん…」
今私が彼女に教えてもらっているのは、猫の姿になること。それは、ついこの間クリアした。私は髪の毛が白いからか白猫で。頭の先から爪の先までぴったりと猫の姿に変身することができた。だけど、それは何もしない状態を数分維持するだけだったからそこまで集中しなくても出来たのであって。
只今私はその姿を維持したまま部屋の中を歩くように彼女に言われている。だけど、少しでも集中力を欠けば私はあっという間に元の人間の姿に戻ってしまう。私はついつい力んで爪を出しそうになるのを全力で抑えながら、ぷるぷると緊張から小刻みに震える脚でとてとてと部屋の中を回った。
彼女が邪魔にならないように壁際で姿勢を正して私を見ているのが分かる。ああ、さっさと終わってほしいと思うが、非情にも時間はゆっくりと過ぎていく。
外の廊下で男達がげらげらと笑う声が聞こえる度に、私の集中力は霧散してしまそうになって、私はその度に尻尾までびしっと伸ばしてそれを抑えた。
「十分経過。終了です」
「終わった…」
彼女が終了の合図を述べた途端に、人間の姿に戻る。動物の姿を維持することがこんなにも難しいとは知らなかった私は、彼女が猫に変身してこの船に潜り込んだことがものすごく凄いことだと感心した。
「ここまで上達が早いとは思っていませんでした。次はこれより長い時間変身できるように頑張りましょう」
「そ、そうなの?じゃあもっとがんばる」
少し微笑み上達具合を褒めてくれた彼女に嬉しくなる。すかさず今よりも更に上を目指す彼女にもう次を目指すのかと思いながらも頷いた。彼女はマルコと同じくらいスパルタだ。けれど、まあ彼女は私がちゃんと物事を理解するまで何回も同じ説明を繰り返してくれるから、一概にそうとは言い切れないけど。
様、お渡ししたい物がありますので、お手を拝借したいのですが」
「え?うん」
彼女に言われるままに手を差し出せば、ぺらんとした四角い石、のような物が手のひらに乗せられる。軽いのだろうと思っていた私はそれを受け取った途端、手のひらが地面に落ちる程の重さを感じて慌てて腕に力を入れた。
「なにこれ?」
ぷるぷると震える腕に、この石はどれだけ密度が高いのだろうと不思議に思う。
「これはリョウコウ石と言って、吸血鬼の間に広まっている石です。我々は極端に力が強い為、こういった小さな形で重さのある物を使って体力を作るのです」
「そうなんだ」
リョウコウ石という鉄のような色をした石を見つめる。こんな私の両手の平で収まるくらいの大きさしかないのに、こんなに重いなんて。確かに、これは良い特訓の材料になるに違いない。
様にはこれからこの石を身に着けて生活してもらいます。寝る時やお風呂に入る時以外、いつも身に着けてください」
「もしかして、マルコたちとの組手の時も?」
まさか。そう思って恐る恐る彼女に訊けば、もちろんですと返ってきて項垂れそうになる。今でさえマルコから点数を取るのはまだ難しいというのに、こんな重りを付けることになるとは。
しかも彼女が言うにはこれ一枚だけでなく、両腕両足に一枚ずつ付けるのだ。リストバンドのようになった重りが枷のように私の手足に付けられる。手足をちょっと動かすだけでも一苦労だ。ちなみに、このリョウコウ石は一枚70キログラムあるらしい。つまり、合計で280キログラムを身体に付加させているのだ。重い。
「大丈夫です。様ならすぐに慣れます」
「そんな…こんなの付けてたらマルコたちにボコボコにされる…」
ぐぐ、と腕を持ち上げてみるけれど、こんなものを付けて彼らと戦える気がしない。むしろ手も足も出ない自分が容易に想像できてしまう。けれど、これはやるしかないのだ。自分を強くするためには必要な段階。それを乗り越えなければ私はいつまで経ってもこの船の皆を守れるくらいに強くはなれない。


「で、一枚70キロだから…えーと、」
「280キロ」
私の前で胡坐をかいているエースは「ああ、そうそう」と頷いた。彼は肉体的には鍛え上げられているけれど、もうすこし脳みそを鍛えた方が良いかもしれない。そう思ったが、それを言うと怒られるのは確実なので私はそのままそこをスルーした。
「まあアリシアが言う通りお前だったらすぐ慣れるんじゃねェか?」
「そうかもしれないけど…重い……」
一見そんな重りを付けているように見えない私を見て彼がそう言う。確かに以前の私だったらきっと、こんな重りを付けた時点で立ってはいられなかったのに、現在の私はそれを身に着けても普通に歩くことができる。少し動きが鈍くなるのは仕方がないこととして、彼はそういったことも含めてそう考えたのだろう。
「俺が帰ってくる頃にはもうマルコともそれ付けたままで戦えてるだろ」
「え?エース、どっか出かけるの?」
さらりと述べられた言葉にきょとんとする。彼は今帰ってくる頃にはと言っていた。つまり、何日かこの船を出るというのだろうか。おう、オヤジに頼まれてな。明日から一週間くらい遠征に行ってくる。彼はそう言ってニカッと笑った。
彼が言うには、白ひげ海賊団傘下の者の船にある物を持っていくように頼まれたようだ。それは彼自身よく分かっていないみたいだ。身軽に行動できるのはこの船にはマルコかエースしかいないから白羽の矢が彼に向いたらしい。
「そっか。エースがいなくなったら食費がかからなくなるから料理長が喜ぶね」
「んだと?そんなこと言ってっとお前のお土産無しにするからな」
私が笑いながら冗談を言うと、彼は同じように笑いながら私の首をその逞しい腕で締めた。苦しいと彼の腕を叩けば、彼は参ったかと言うように眉を片方上げるから、私はおかしくなってまた笑ってしまう。
彼はお酒とおつまみを手にしながら、私のそんな様子を眺めていた。ふと、彼がお皿の中の枝豆の皮をぐぐっと押して私の顔に向けて放った。料理長やサッチが見ていたらブチ切れ確実の行為だ。
「やったな!」
「お前が目上に敬意を示さないからだろ?」
私はもちろんそんな攻撃をくらわなかったけど、彼の挑発的な態度に乗って負けじと枝豆鉄砲を発射した。ぷっと飛んでいった枝豆は弧を描いて、そのままエースの顔にぶつかると思いきや、彼はそれをぱくりと口の中に入れて飲み込んでしまう。
――ちぇっ。
「うめえ。サンキューな、
「別にエースにあげたわけじゃないから」
むっとして彼を見るけれど、次の瞬間にはお互い吹き出してくだらないと笑い合った。けらけらと響くその声を聞きながら、ああ、この太陽みたいな人の声が一週間も聞こえなくなるのかと少し寂しくなる。以前も彼がこうやって遠征に出かけて行くことはあったけれど、それは大抵数日もかからない短期的なものだった。それが今回は一週間。少しその長さを噛み締めていると、彼も同じことを考えていたのか「お前と一週間会わないのか…不思議だな」。そう言った。
何だかんだ言って私たちはこの船に乗っていて一日の内に顔を合わせないときが無いぐらいなのだ。彼が私を探しに来る時もあれば、私が彼を探しに行く時もある。特訓で顔だけでなく拳を交える時もあるのだ。本当の兄妹ではなくても、それと同じような関係。お互いに信頼し、家族だと思っている者と一週間も会えないなんて。
「お土産楽しみにしているからね」
「おう。お前も俺が帰ってくるまでにこの重りに慣れとけよ」
私の頭をぽんぽんと撫でた彼に頷く。よし、絶対エースが帰ってくるまでにこれをつけたままでも対等にマルコと戦えるようにしてやる。
そう決心したは良いが、夜も更けて今にも瞼が落ちそうになる。彼が「部屋に戻って寝ねェと風邪ひくぞ」なんて言う声が聞こえたけれど、それはもう私の鼓膜を揺らすことなく空間に吸い込まれていった。


「ったく、こいつはまたこんなとこで寝やがって」
「おう、マルコ。こいつ運んでやってくれよ。寝ちまった」
マルコが食堂に訪れると、そこには机につっぷしたがいた。とても穏やかそうに眠っている彼女は、今起こしたらきっと機嫌が一気に悪くなること請け合いだ。
仕方のねェ奴だよい。そう呟きながら彼が彼女を抱きかかえる。
「う…っ、こいついつのまにこんなに太ったんだい?」
「280キロ?の重り付けてるらしいぜ」
ずしっと腕にきたいつもの彼女よりも遥かに重いその体重に、それの原因は別のものだと分かっていながらも彼が眉を寄せる。それを見たエースがけらけら笑いながら事の詳細を彼に教えてやった。なるほどねいと彼は呟きながらも、それにしてもこんなに重くするとはと心中呟く。
マルコもアリシアも、彼女を思うあまりにスパルタになるのは共通しているようだった。

翌朝、私が寝ている間にエースは遠征に出かけて行ってしまった。
早く帰って来てよね、私の兄貴。エースがいないとこの船はいつもより大人しくてつまんないんだから。


2013/05/12


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