19 あの頃となんら変わらぬ

「はははっ、まだまだだぞ!!」
「エースこそ!!」
甲板の真ん中でごろんごろんと床を転がり合ったり、お互いに掴みかかっている彼ら。二人とも心底楽しそうに遊んでいるようだった。しかし、それは傍から見ればじゃれ合っているというより戦っているに近くて、傍にいる男達はそれを微笑ましそうに見ながらも自分たちに被害が及ばないように気を付けていた。
「お嬢楽しそうだなァ。良いなぁ、エース」
「じゃぁ混ぜてもらって来いよ」
「誰があんな猛獣のガキ共のじゃれ合いに参加するかよ」
怪我するのは確実だ、そう彼らはげらげらと笑う。彼女に蹴り飛ばされたエースがどんっと壁にぶつかった。彼女は吹っ飛んだ彼に向かってごめんと笑いながら駆けて行く。しかし起き上がった彼も同様に笑っていて先程のように押し倒されたり押し倒したりの繰り返しが再開された。
きゃいきゃいと笑っている彼女たちの楽しそうな声がモビーディック号に響き渡る。


 その光景をアリシアは日陰から眺めていた。がぶっとエースの首筋に噛みついた彼女を見ながら、まるでライオンの子供たちが遊んでいるようだと、そんな考えが頭に浮かぶ。
「やったな!」
「あはは!!」
噛むというのは吸血鬼の癖と言って良いだろう。目の前に無防備な首を差し出されていると、吸血鬼はつい噛みたくなってしまうのだ。彼女はもちろん甘噛みをしているに違いない。しかし、彼女が噛みつきたくなる理由はよく分かる、そう私は思った。彼の若い身体に、良い香りを放つ血。そんな者が身近にいれば、噛みついてそのまま血を飲みたくもなる。


――私には解せない事があった。何故、彼女はこんなにもこの船の仲間のことを愛しているのだろうか。そしてまた、この船の男達がどうして吸血鬼である彼女をそんなに愛しているのかも分からない。
私は人間――それも特に海軍――を憎んでいる。それゆえ、彼女がどうしてここまであの人間たちを愛しく思うのか理解できなかった。我々吸血鬼の祖先であるリリーは海軍の男に騙されて殺された。私たち吸血鬼は皆、あの時の彼女の憎悪を受け継いでいる。なぜなら我々はリリーから採取された細胞を人体実験として使われた者たちから生まれたから。だから、初期の吸血鬼たちは人間から強制的に吸血鬼にされた者たちにすぎない。しかし、その子供たちは混じり気などない完全な吸血鬼になる。吸血鬼の血が強すぎるせいで人間の血が負けるからだ。
純化作用が終ると同時に、吸血鬼の大部分がリリーの憎悪を知る。実際にあの時の光景を見ることはないが、血が騒ぐのだ。「人間を、海軍を決して許すな」と。私もその血にその思いを植え付けられていた。今では自分が人間だと思っていたあの頃の、人間を愛しく思う心など忘れてしまった。
――死してなお、人間に利用されたリリー。私たちはその憎悪を忘れない。忘れたくても、身体に染みついて片時も離れてくれないから。様はLILYで私たち以上に彼女の憎悪を感じた筈なのに、どうやってこの憎しみを乗り越えたのだろう。

 彼女が日の光に曝され始めて既に三十分。お教えしなくてはいけない事も沢山あるし、そろそろ彼女を部屋の中に退室させようと私は安全な日陰から出て彼女らのもとに向かった。
様、そろそろお勉強の時間です」
「あ、アリシア。分かった」
じゃあまたね、エース。おう、勉強がんばれよ。彼らはそう手を振り合って別れた。私は彼女の後に続いて彼女の自室に向かった。様はこの部屋を私に貸してくださっただけで、私の部屋ではないからそういうことにしている。
ぱたんと扉の閉じる音が響き、前を歩いていた彼女が椅子に座った。私は予め用意しておいた彼女の部屋の壁に立てかけてあるブラックボードの横に立ち、白いチョークを握る。基本私の学びのスタイルは口頭だが、口頭では分かりにくい所を図などで説明するためだ。
「では、今日は改めて吸血鬼の生態についてお教えしましょう。シュトラウスからは聞かされていないことがまだあると思いますので」
「うん、お願い」
あの貴族然としている者たちは様が一度に知っても混乱すると思い、全てを話していないはずだ。私はそう判断して彼女に吸血鬼とはなんたるかを説き始める。
―――吸血鬼とは、太陽に嫌われ夜の世界でしか生きることができなくなった鬼のことです。通常の鬼と違うのは血を必要とすることですかね。また、吸血鬼には二種類います。元々吸血鬼だった者と、人間から吸血鬼になった者。後者は吸血鬼から血を与えられた場合になります。吸血鬼の細胞が人間の細胞を破壊し、最終的に吸血鬼になるのです。
そして吸血鬼の弱点。それはもちろん太陽の光です。現に私たちは個人差もありますが二時間も外にいると倒れます。なるべく外に出ない方が良いでしょう。逆に長所、というか能力は沢山あります。
「具体的に思い浮かぶことはありますか?」
「…怪力で動体視力が良くてスピードが速かったり、動物に変身できたりすること。あ、あと催眠術も」
少し考えながらもいくつか述べた彼女に頷く。大方は間違ってはいないが、まだまだ我々には出来ることが沢山あるのだ。寿命が無かったり、極端に治癒力が高かったり、人間より極端に強靭な肉体を持つ。
―――補足をさせていただきますと、吸血鬼は生まれ持っての戦闘種族。鍛錬していない者でも人間二十人の力を持っていることが平均的です。手の仕組みを変えて爪を尖らせることなど朝飯前ですし、その爪はナイフよりよっぽど切れ味が抜群です。
「また、我々はある一定の距離内であれば、気心知れた者同士でテレパシーを使って意志疎通を計ることができるのです」
「テレパシーって、そんなこともできるの?」
そうです、と黒板に大きめの円を描く。中心に人間を描き、半径50キロメートルと書く。これが、テレパシーを使える限界だ。
そうなんだ、と純粋に感心している彼女に頷く。使いこなせるようになれば、吸血鬼は他のどの種族よりも優れていることが分かるだろう。ただ、五感が発達しすぎて逆に辛い時もあるのだが。
「そういえば、動物に変身するためには、その動物の生態学を理解していないと出来ません。だからこれから多くの動物の生態を知りましょうね」
「あ、そうなんだ。だからきっとうまくいかなかったんだ…」
ぽつりと独り言のように呟かれたそれに、なるほどと心中呟く。彼女は独学で動物に変身しようと努力していたのか。けれど、吸血鬼の生態をよく知らない者からしてみると、それはかなり難しい。何の動物にどこまで変身できたのかと問いかけてみると、彼女は猫で耳と肘までだと教えてくださった。
――変身のイメージはかなり難易度が高いのに、それを部分的とはいえ変えてしまえたのは、やはり彼女がLILYだからだろうか。
彼女の潜在能力の高さに、思わず口元が弧を描きそうになる。彼女を王として育て上げたら、きっと全世界の吸血鬼が迷わず平伏すような強力な王になるに違いない。
育てがいのある彼女の様子に、内心酷く高揚しながらも表に出すことはしなかかった。
「では折角ですし、今日は猫の生態を詳しくお教えしましょう。そして、変身の練習をしましょうか」
「うん、やってみたい」
彼女はとても知識に貪欲だ。それが私には嬉しい。きっと、彼女は私の知恵と経験全てを教え込んだ時、素晴らしい王になる。私はそう確信を持って、彼女に知識を叩きこむことにした。


 彼女の部屋の壁に背を預けて中の会話に聞き耳を立てる。どうやらアリシアは真っ当に彼女に吸血鬼の知識を授けているらしい。監視というわけではないが、否。やはり自分が行っていることは監視か。そう認めてアリシアがを無理やり連れていこうとする様子が無いかと気を配る。この船の周りには海しかないが、吸血鬼には色々な能力がある。もしかしたら彼女を連れ去ることなんて容易にできるかもしれないのだ。鋭いオッドアイを持った女を脳裏に描く。目的を遂行するためなら容赦なく何かを犠牲にできそうな、あの女。そんなイメージを初対面の時感じた。
彼女の講義を真面目に受けているの質問する声が時たま聞こえる。彼女は基本的に優等生らしく、彼女の手を煩わせていないようだ。
「(にしても、に部下が出来るとはねい)」
がしがしと頭頂部の髪をかきながら、ふと心中で呟く。その部下というのは当たり前のように吸血鬼だが、これから彼女はどんどん俺たちに依存していた少女から、吸血鬼の女王になっていくのだろうか。
――王なんかに、ならないでくれよい。
そんなことを願っても仕方がないことかもしれない。彼女にはLILYの血が確かに流れていて、それが彼女ら吸血鬼を呼び寄せる。種族をまとめる長なのだ、たとえ彼女がまだ幼い少女だとしても避けられないことなのだ。

お前がこの船から出ていって、二度と帰ってこないとしたら、俺はいったいどうすれば良いんだろうなァ。


2013/05/01
あなたはどうしてヒトを愛せるのですか。

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