17 それを、偽りだと

 前の冬島から出航して数日経つ。今では以前のような寒さも少し落ち着いてきた。しかし、まだまだ寒気は傍にあって、外に出る時はコートを手放せない。
私の一日は、サフィラを拾ってから少し変化した。朝、大体七時頃になると彼女が一鳴きして私の意識が浮上する。そして彼女がもう一鳴きすると私の意識は完全に目覚めに向かっていき、身体を起こすのだ。眠いことには変わりないが、彼女のおかげで最近はマルコたちが私の部屋に起こしに来るのよりも早く目を覚ます。
「おはよう」
「にゃぁ」
青と緑の綺麗なオッドアイをぱちりと開閉させた彼女が鳴く。すり、と脚にすり寄ってきた彼女を撫でて私は朝の着替えを始めた。とはいってもまだ寒いこの時期はベッドから出るだけでも辛い。さっさとパジャマを脱いで冷たい洋服に袖を通すと思わず鳥肌が立った。
「おはよう、
「おはよう、サッチ」
一度ノックをしてから入ってきた彼に欠伸を混ぜながら返す。今日もサフィラのおかげで早く目覚ましたんだなァと言う彼は、すでに着替え終った私の寝起きの頭を手櫛で大まかに整えた。まるでコイツはお前の母親だなァなんて彼はサフィラを見下ろしながら言う。確かにそうかもしれない。朝、寝坊助な子供は母親に起こされるのが常だ。私も見事そこに当てはまる。ただ、起こしてくれるのが猫のサフィラだという違いだけで。
彼女は本当に賢い猫だった。私以外の者の言葉に反応するのはあまり見たことがないけれど、私の言葉にはいつも反応を返してくれる。きっと、彼女は朝に弱い私のことを起こしてやろうと言う気持ちになったのだろう。
「おはようさん」
「おはよう、マルコ」
とんとんとノックをして入ってきた彼に朝の挨拶をする。彼はいつものように朝食を食べに行こうと私たちを外に連れ出した。びゅうと北風が吹く。
――寒い。
そう呟けば隣にいたマルコがそっと手を握り締めてきた。私より高い体温の彼の手に包み込まれる。あったかい、と微笑めば彼は安心したように笑った。


 いつも通りマルコとの対戦を終えて夕食を食べてから部屋に戻ってきた。サフィラは私のベッドの上で丸くなっている。目を閉じているからきっと寝ているのだろうと思って、先にお風呂に入ることにした。
ザアアアと頭から温かいお湯をかぶる。湯をはったバスタブに顎まで身体を沈めてぶくぶくと泡をたてる。ああ、あったかい。日本人は綺麗好きだというけどそれは確かに本当で、私はお風呂に入る時間が何よりも好きだ。この温かいお湯に包まれていると安心する。しかも、こういう冬島付近の海だと余計に。
いつものようにゆっくりとお風呂の時間を楽しんでから私はあがった。
バスタオルで濡れた髪の毛を拭く。早く乾かさないと風邪をひくとマルコたちが五月蠅いから。それにいつまでも濡れていると首の所が冷たくてかなわない。昔はいつも彼らに髪を乾かしてもらっていたなぁ。そんなことを思い出し髪を拭きながらベッドに座った。私の膝にサフィラが身体を預けてきてそこが彼女の熱で温かくなる。ごしごしと髪の水分を取っていく途中で眠くなってふわあと欠伸をした。その瞬間勢いよく何かに身体を抑え込まれベッドに押し倒された。
ああ、眠いと思って目を閉じていたからか、その突如の出来事に私は反応できなかった。助けを求める為に開いた口も塞がれてしまって、ふごふごと籠った音しかでない。
「ご無礼をお許しください。しかし、騒がれては不都合ゆえ」
「…っ…!?」
私の上に跨っているのは、長身の女だった。ストレートの金髪に、青と緑のオッドアイ。私は私のことを抑えつけているその女を下から睨みつけた。――油断した。まさか、こんな身近に家族以外の者がいるなんて思いもしなかった。その細い身体のどこからこんな力が出るのかという程彼女は私よりも圧倒的な力を持っている為、抵抗しても手足が動かせない。彼女は依然として私を抑えつけたまま話す。その声は女にしては低く、男にしては高い中性的な声だった。
「私はあなたの敵ではありません。私は、吸血鬼です」
「ふぅう……!?」
――ライジャム島でずっと機会を窺っていたのです。
冷静な彼女の言葉に目を見開く。それでは、まさか。彼女の言葉にはっとしてちら、と視線を部屋のあちこちに配るが、サフィラの姿が見えない。この女はサフィラと同じ目をしている。まさか、彼女が猫に化けてこの船に潜り込んでいたというのか。
「数日間あなたの周りを観察させてもらいました。私の本当の名前はアリシア。”サフィラ”は、今日でお終いです」
「……っ」
何てことだ。それじゃあ、私はまんまと彼女を船に招き入れてしまったのか。私の馬鹿。猫だからって勝手に何の危険もないだなんて思い込んで。ふー、ふーと猫が威嚇するように彼女を睨む。早く、私のことを解放して。
その様子に、彼女は少し困ったように溜息をこぼした。
「叫ばない、暴れないと約束していただけるなら、この手を離しましょう」
「……」
私はそれに素直に頷いた。彼女の言う通り、どうやら彼女は私に危害を加える気はないようなので、それに従うことにする。
「ご無礼をお詫びします」
「はぁ…。で、あなたはどうしてこの船に?」
私の上から身を起こし、床へと移った彼女は片膝を床に付けて私を仰ぐ姿勢を取る。私は吃驚して荒くなった呼吸を静めて彼女のことを改めて観察した。彼女は端正な顔立ちをした女性だった。なるほど、サフィラがそのまま人間になったような姿をしている。彼女は猫の時から目が鋭くて、それが人間の姿でも見事に反映されていた。
「私はあなたの教育係としてここに派遣されました。我が君、どうかここを出て我らのもとにお越しください」
すっと、私を見据えたその瞳はあの頃出会ったルイーゼたちよりも鋭く、無慈悲な印象を受けた。彼らには会って間もない私を思いやってくれる優しさがあったけれど、このアリシアにはそういった感情はなさそうだ。
とにかく、分からなかった”教育係”という単語に、それはどういうものかと訊ねた。彼女のもとには行く気は無いけれど、とりあえず私は吸血鬼の世界について世間知らずだから、少しでも情報を集めたくて。
彼女は、その役目について細かく話してくれた。教育係とは王として覚醒した者に、吸血鬼が何であるかそしてLILYがどれほどの力を持っているかという知識を与え、また王としての自覚を促し体力、技術ともに成長させるお目付け役のことを言うらしい。
「我が君は覚醒してからまだ日が経っていません。あなたにはまだ知らないことをお教えするのが、私の任務です」
「そう………。でも、私はあなたたちの所に行く気はない」
一筋縄ではいかなそうな彼女を見つめてはっきりと言う。私はこの船から離れる気もないし、家族を捨てて吸血鬼の仲間の所に行く気もない。この話は受け入れられないという意味を込めて彼女を見つめていると、彼女はその美しいオッドアイで私のことを睨みつけた。
「あなたは、吸血鬼の王であられるお方です。何故、仲間を捨ててこの船を選ぶのですか」
「あなたにとって仲間がそうであるように、私にとってこの船の皆は大切な家族なの」
――家族を捨ててなんて行けないよ。そう言おうとしたその時、とんとんとノック音と共に「ー」という声がして返事も待たずにがちゃりと扉が開いた。こんな時に、いったい誰が。
入ってくる相手に待ってと言う暇もなかった。彼女は扉が開いた瞬間爪を尖らせて、その鋭い爪でその者の喉を掻き切ろうとした。
「やめて!!」
「うおっ」
寸での所で声を絞り出すことが出来た。余りにも早い、目にも止まらない瞬間的なことで、私は背中に冷や汗がぶわっと拭きだすのを感じた。
扉を開けたのは――サッチ。首にアリシアの鋭い爪を突きつけられて彼は一歩も動くことが出来ない。もし、私が少しでも制止の声を投げるのが遅かったら、彼の首はとうに胴体と離れていただろう。
「アリシア、サッチを傷付けないで……」
「御意…」
不満そうな顔をしていたが、彼女は私がそう言うと素直に彼の首から爪を離した。皮膚が薄く切れたのだろう、つうっと彼の首に伝った赤い血が鮮明に私の目に映る。


「お、い…、いったいどういうことだ?説明しろ」
サッチは内心酷く焦っていた。また、長年暮らしていた自分の船だからってあまりに油断しすぎていた自分に怒りが向く。この女は何だ。何故、見たこともないこの女がの部屋にいる。彼女は酷く疲れたような顔をして、俺の言葉に頷いた。


 彼がそんなことを思っていることにすら気を配れない程、今の私は焦っていた。心臓がばくばくと五月蠅い。私に危害を与えていないからって油断した。間違いなく彼女はあのままサッチを殺すつもりだった。私の周りにいる邪魔者として彼を容赦無く排除しようとしたのだ。
「サッチ…、彼女はアリシア。私と同じ吸血鬼だよ。猫に化けてこの船に乗ってたの」
こんなことになるなんて分からなくて…ごめんなさいと彼に頭を下げた。彼は展開について行けないのか「は?猫ってことはサフィラ?どうしてただの人間が猫に化けれるんだよ」と混乱している。
それもそうだ、彼は吸血鬼が動物に化けられることなど知らない。自分が変身できるようになってから驚かせようと思っていたのが、こんな所で仇になるとは。私は、彼に分かりやすいようにもう一度一から説明をした。
アリシアが私の教育係で、私のことを吸血鬼の仲間の所に招待した所まで話した頃、彼は目付きを元より鋭くさせて彼女のことを睨みつける。
「おい、お前。の保護者は俺たちだ。勝手にコイツのこと連れていこうとしてんじゃねェよ」
「”保護者”というのは、通常子供を危険から守る者のことを指すのではないか?お前たちは我が君を全く守れていないじゃないか」
現に私の侵入を許している。そう続けた彼女の言葉に彼はぐっと詰まった。間抜けな保護者をお持ちになって、我が君も可哀想に。彼に聞こえるように呟いたその嫌味は、彼を切れさせるには十分な効果を持っていた。
「テメェ!女だからって容赦しねェぞ…!」
「容赦されなくてもお前に勝つ自信はある」
「ちょっと!二人ともやめて!!」
今にも殺し合いを始めそうな二人の間に割って入る。こんな風にサッチが綺麗な女に向かって剥き出しの敵意を向けるのは珍しかった。きっとそれほどまでにこの状況に苛立っているのだ。彼はぎりっと奥歯を噛み締めて、私を彼の背に隠した。
「こいつは誰にもやらねェ。俺たちのとこから奪おうってんなら、この船の奴ら皆がお前の相手をするぞ」
「…何故だろうな。我が君もここから離れる気はないと言った」
私は我が君を仲間のもとにお連れしなくてはいけないのに。困ったと言う彼女の顔は言葉と同じように困っているようには到底見えなかった。
――何十秒も沈黙が続く。彼女は色々考えているようだった。鋭い瞳に陰りが差している。そして答えを導き出したのか、私たちのことを視界に入れた。
「…仕方ない、私もこれから白ひげ海賊団に世話になることにした。その最中我が君に王としての教育を施し、我らのもとに来ていただけるように説得し続ける」
「ハァ!?お前なんかをオヤジが許すわけないだろ!?」
当然のように彼は彼女の言葉に反論した。彼としては今すぐ彼女をこの船から追い出したかったのだろう。しかし、サッチには申し訳ないけど、私は彼女のその言葉に分かったと頷いた。力づくで連れて行かれるよりも、この船でずっと説得され続ける方が良いからだ。私が頷いたことにサッチはやはり反対してきたけれど、彼女の一筋縄ではいかない雰囲気を感じ取ったのだろう、渋々頷いてくれた。


2013/04/30
守ろうとしたあの子が言ふ

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