13 行き着く先が絶望でもいい

――ぱちり、と目が覚めた。カチッ、カチッ。時計の針の進む音が閑寂とした部屋に響く。
こんな風に夜中に目を覚ますのは酷く久しぶりだった。最近では喉が渇くこともないし、悪夢だって見ない。それがどうしてだろう。ベッドの中で丸まったまま考えてみる。
しかし深く考えても分からないだろうなと思い、それは放棄した。元々吸血鬼は朝型というより夜型だから目が覚めてしまったのだろう。そう勝手に結論付ける。
しかし、眠れない。眠気が吹き飛んでしまったのか、中々瞼が落ちてこない。どうしようか。朝まではまだまだ時間がかかる。外は真っ暗闇で、冬島に近づいているからとても寒い。外の寒さを想像した私は温かい布団の中だというのにぶるりと震えてしまった。どちらかといえば暑い方より寒い方が好きだが、冬の刺すような寒さは好きではない。動いていればそれ程気にならないが、じっとしている時のあの寒さが身に凍みるのだ。
――まあ、でもたまにはそんなのも良いかもしれない。
誰も起きていないこの時間帯に、外を散歩するのは気持ちが良いだろう。それに私は普段日光に怯えて外に出ていないから、たまには外に出て周りを眺めるのも良いかもしれない。
「さっむ……」
布団から抜け出すと瞬間襲ってきた寒さに体を震わせる。早く、コートを。とコート掛けにかかっているファーコートを上からきっちりと着た。マフラーで首を覆って防寒用のブーツを履く。これで準備オーケーだ。
そうっと扉を開けて廊下に出る。びゅおっと開けた扉から冷気が部屋の中に滑り込んできて、思わずぶるりと震えが走る。
あわわ、寒い。そんな当たり前なことを思いながらゆっくりと甲板に向かう。吐き出す息は真っ白で、暗闇の中でそれは目立った。
――静寂の中をゆっくり歩き続けて甲板に着いた。壁が周りにない分、些か先程よりも寒くなった気がするがそんなことは気にしないで進む。


 白い息を吐きだしながら夜空を見上げる。濃紺の中に浮かび上がる幾千幾万もの天体たち。故郷だったらこんなに美しい空を見ることは出来なかっただろう。空気が冷え込んでいる分空は澄んでいて、より一層星の輝きを直に私の瞳に運んできてくれた。
赤、青、黄、緑と光彩を放つ星々はまるで生きているように強弱を付けて光を送ってくる。寄り添うそれらは、共鳴するように絶えず瞬いてこの世界を呑み込もうとしているようだ。
何と、美しいことか。何万年も昔から地球に送り続けてきた光を、私は今見ている。満天の星空からはとてつもないエネルギーを感じた。ずっと、ずっと宇宙が蓄え続けてきたこの美しい光。それは、どんな宝石にだって負けないくらいの魅力を持っている。否、宝石よりよっぽど美しく神々しい。
――私は耳を欹てた。あの巨大なエネルギー体が何かわたしに信号を送っているような気がしたのだ。静かな、静かなこの空間に、星々が囁き合っているような不思議な空気が流れ込んでくる。
ふらり、と何かに誘われるように足を踏み出す。甲板から覗き込んだ海は、淑女のように水面を揺らめかせていた。愛する子供を子守唄で寝かせるような、そんな優しい表情をしている彼女。
満天の星空を映した彼女と夜空が溶け合って境目が見えない。上も、下も無限に煌めいていた。
何よりも、美しい彼女。全てを受け入れて母親のように包み込んでくれる慈悲深さを見せる時もあれば、激怒して巨大な船をも飲み込んでしまうような残酷さを見せる。世界一偉大で、美しく、残酷で、優しくて強い彼女。
――
ああ、彼女が私を呼んでいる。呼んでいる気がする。
――
行かなくては。彼女が呼んでいる。応えてあげないと。この冷たい水の中に沈んでいくのかと思うと少し怖いけれど、不安も焦燥も絶望も、全てを包み込んでくれる彼女ならきっと受け止めてくれる。彼女なら、私を受け入れてくれる。人間も、吸血鬼も、彼女の前では皆平等だから。何よりも雄大な彼女と、溶けあえるのなら、それで良い。
一段上る。身体を動かそうとした記憶などない。ただ、彼女に近づきたくて意識せずに一段上っていた。ふわふわと、思考がまとまらない。夢を見ているようだった。
――世界で一番気高い彼女が呼ぶのなら、私は彼女のもとにいかなくては。
身を乗り出すように手を、伸ばす。海面に向かって伸びたそれは凍えるような寒さで真っ白になっていた。
――ああ、あと少し。あと少しで、彼女と溶け合える。
ぐらり、と重心が傾く。さあ、おいで…と彼女が手招きしたように私は感じて、目を瞑った。
…ッッ!!!」
「っ!!」
今にも冬の海に身を投じようとしていたその瞬間、誰かが私の腕を掴んで私は海から離れさせられた。乱暴だと思う程に強かったその力はしかし、次の瞬間には私を抱きしめて、私はがっしりした体躯に閉じ込められた。
!お前何やってんだよ!!」
「あ……サッチ…?」
決して離すものかというように抱きしめられている私は辛うじて動かせる首を動かして上を見上げた。そこには、顔を真っ青にして震えているサッチがいる。それはきっと寒さだけからきたものではない。私を失うことを恐れた彼が、心の底から震えあがったのだ。
夢か現実か分からないような空間の支配から解き放たれた私は、先程のことを思いだして彼と同じように顔を青くした。もし、彼が私の腕を引っ張っていてくれなかったら、私はあのまま身も凍るような海に落ちてそのまま海と一体化していただろう。
「お前…まさか、“呼ばれた”のか…?」
「…うん…」
魅せられて船に乗るのか、はたまた船に乗って魅せられるのかは分からないが、船乗りたちは皆“彼女”の虜になる。それを、今私は体験していた。数えきれないほど色んな貌を持っている彼女は、容易に私たちの心を攫って行ってしまうのだ。攫ってしまった後は、どうともしないのに。攫ったら、攫いっぱなしのまま。
不寝番の奴がお前のこと何度も呼んでるのに、聞こえてないみたいだから焦った。はぁぁ……と白い息と安堵の溜息をゆっくりと吐き出した彼に、ごめんと謝る。あの時の私は完全に魅せられていた。彼女の美しさに、心を奪われて周りの音なんて一切聞こえてなかったのだ。
「良かった……。たまたま目が覚めてお前のとこを見に行ったらいねェからよ…」
「ありがとう、サッチ…」
本当に、引き留めてくれてありがとう。あのまま海に落ちて、彼女に呑み込まれなくて良かった。彼女と一体化するというのはとても恍惚感に満たされるのだろうけれど、それと代償に命を奪われてしまう。
すっかり身体の髄まで冷えてしまった私を温めるように、彼が強く抱きしめた。
――二人の息が白い。
「寒い…もう寝よう」
「うん」
サッチが私を抱えて歩き出す。向かうのはきっと、彼の部屋だろう。
彼の肩口から、魅惑的な光を放つ天体を浮かべている海が見えた。私には、彼女がまだこっちへおいでと誘っているように感じた。


 翌朝、俺は俺の腕の中で眠るを見つけて心の底から安堵した。また、ふらりと抜け出して海に誘われていたらどうしようかと不安だったのだ。
すうすうと小さな寝息をたてている彼女の寝顔を見て、昨晩のことを思いだす。

――あれは、心底ぞっとする光景だった。
たまたま目が覚めて「どれ、あいつの寝顔でも見に行くか」と彼女のもとに向かったのに、何故か彼女の部屋はもぬけの殻。嫌な予感がして甲板に向かってみれば、お嬢!!と何度も叫んでいる不寝番の男の声が聞こえた。
それに誘われるままに駆けだせば、甲板から身を乗り出して真っ暗な海に手を伸ばしている彼女が目に入って。俺にだって聞こえる彼の声がどうして彼女には聞こえていないんだ。
ぐらりと重心が傾いて海に落ちそうになった彼女を見て、胃がぎゅっと締め付けられた。
……ッッ!!」
彼女が海に落ちる直前にぐいっと彼女の腕を引いて自分の腕の中に閉じ込める。
――何してんだよお前!?!お前、今海に落ちそうになってたんだぞ!!なんでそんなに穏やかな顔してんだよ!!なんで、俺たちの所から消えようとしてんだ!!
ぐるぐると言いたいことが支離滅裂な形で頭の中で文にならない単語が勢いよく渦巻いているのに、わなわなと震える口から出た言葉は何やってんだよ!!だけだった。本当に、恐ろしかった。
目を開いた彼女が徐々に意識を取り戻したことが分かって、安堵した。しかし、まだ離すことは出来なかった。また、海に身を投じようとするかもしれないから。
あの後、彼女を抱きしめて眠った俺は、彼女が海に誘われる夢を見た。
戻ってこいと何度も彼女を呼ぶのに、その声が彼女には聞こえないのか浅瀬からと沖の方へざぶざぶと身を沈めていってしまう彼女。
――海は、恐ろしい。見る者を魅了して、その心を喰い自分の一部にしようと甘い蜜を滴らせた罠をしかける。
彼女がその餌食にならなくて、良かった。俺も、海に魅せられた者の一人だから、彼女の気持ちが痛いほどよく分かるのだ。
……俺たちの所からいなくなるな…」
眠っている彼女に懇願する。本当に、お願いだから。二度と、俺たちの所から姿を消さないでくれ。
「サッチ…」
ふと、彼女の口から小さな音で俺を呼ぶ声が聞こえた。起きたのか?そう思って彼女を見てみると、彼女はまだ目を瞑っている。
――寝言か。
きっと、何か楽しい夢でも見ているのだろう幸せそうな顔をしている彼女に、俺は救われた気がした。


2013/04/28
誘われるは、少女が王だから

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