05 Uneasiness and Impatience

 がLILYとして覚醒してから既に二カ月も経っていた。当初、俺は彼女のその状態に気付いた吸血鬼たちがすぐさま彼女を取り戻そうとやって来るだろうと思って気を張っていたのだが、そんな様子は微塵もない。奴らが来ないのならそれでいい。しかし、それはまるで嵐の前の静けさのように妙に穏やかな日常を過ごしているようで、今の状況が俺にとっては不安の材料であった。尚且つ、彼女の戦闘能力は未だ上達する兆しが見えない。
やはり、彼女に覚醒時のような強さはない。どうやったらそれを彼女から引き出せるのだろうか。今、吸血鬼や海軍に追われていないこの時に彼女の戦闘能力を上げておきたいのだが、それは焦り過ぎなのだろうか。
しかし、俺が考えていることがただの杞憂ですむことが無いのを、俺はきちんと理解していた。いつかは、彼女がLILYであると海軍にも知られる時が来るだろう。その時に、彼女の身を安全にできるように、戦いの術を叩きこむ必要が俺にはある。
――着々と秋島に近付きつつあるこの日々。次の島に着けば、彼女は嫌でもこの船以外の人間と接触しなくてはならない。その時、もし一般人の中に彼女を狙う輩がいたら。そう思うとやはり、彼女に早く力を付けさせなければと焦るのだが、それはやはり急ぎすぎているのだろうか。俺が強くなりたいと思った時、俺は今の彼女と同じように時間がかかった気がする。悪魔の実を食べたのは二十歳を越えてからだったし、そう考えれば彼女の成長スピードは妥当なものだろう。
「マルコ、焦んなよ」
「ああ」
俺と酒を飲んでいたサッチが頬を微かに赤くしながらそう言う。長年一緒にいるこいつは俺の感情の機敏に他の奴より気付きやすいから嫌だ。きっと酒を飲むペースがいつもより速いことから俺が彼女のことで悩んでいると推測したに違いない。ああと頷いたが、それでこの気持ちをコントロールできたらそれほど簡単なことはない。
「あいつがまだ弱い間は俺たちが傍にいれば良い。一人の行動をさせなきゃ良いだろ?」
「そうだねい……あいつを急かしたくはないんだが…あいつの身の安全を考えるとな…」
がしがしと頭をかく。この前までは強くなってほしくないとか考えていたくせに、俺は矛盾している。しかしそれは最近の俺の常であった。彼女のことになると矛盾だらけの気持ちで、不安定な状態になってしまうのだ。
きっと、俺は一生彼女のことを心配しない日なんて来ないに違いない。まあ、俺はその状態が嫌ではないのだけれど。


「ほら、もっと軸足に力を入れて踏ん張れ」
「やっ、てる!!」
俺は今の訓練の様子を眺めていた。普段なら俺はイゾウとハルタに彼女を任せている間、隊長の仕事に手を付けているのだが今日は彼女の訓練を観察してみることにした。それの一連を観察することによって、今彼女が抱えている問題を解決できる兆しを見つけられそうな気がしたのだ。因みに今日の教官はイゾウだ。彼は彼女の渾身の蹴りを軽々と受け止めてアドバイスを投げかけている。その様子を見ながら俺は頭の中で色々な仮説を立てていっては消す作業を続けていた。
どう考えれば、彼女のあの時の力が今は感じられないということを立証できるのだろうか。
汗をきらきらと宙に散らしながらイゾウに向かっていく彼女を眺めながら顎に手をやる。ざり、と無精ひげの感覚が指に伝わってきて、それに気を取られながらもまた彼女に意識を戻した。
「もっと本気だせ!」
「こ、れが本気っ!!」
フェイントを食らわせようとして一度繰り出した拳を引っ込めて、下から彼を蹴り上げようとした彼女。しかしそれも最小限の動きで避けられてしまい、彼女は眉を寄せた。
――スピードはまあまあある。小柄な分、この船の巨漢たちに比べれば遥かに身軽に動き回っている。しかし、小柄な分、彼女は力が劣っていた。スピードでその短所を補えれば良いのだが、スピードもこれといって秀でているわけでも無い。彼女よりも俊敏で力のある敵に出くわしたらアウトだ。
そう分析していたが、先程のイゾウの言葉が脳裏を横切りはっとして視線を彼女に戻す。“本気”?
――もし、が無意識のうちに自分の力を抑えつけているとしたら?
先の見えなかった道が、たちまちクリアになっていくような気がした。今までにないくらい頭の回転が速くなっていることが分かる。
彼女は以前から吸血鬼の力をあまりよく思っていなかった。それは今では大分なくなっているけれど、大切な家族を傷付けることを何よりも嫌っている彼女が、訓練とはいえイゾウたちを傷付けない為に無意識に吸血鬼の力を抑えこんでいるとしたら、それは合点がいく。彼女が何よりも大事に思っているのはこの船の仲間たちだ。それが、自分の力で傷つくのが嫌だという思いが彼女自身でさえ気づかない心の奥深くにあるとしたら、未だに覚醒時のような力を発揮できない理由にもなる。しかし、問題はどうやってその抑えつけている装置を解除するかだ。
ただ戦ってもきっと彼女はその安全装置を外そうとしないだろう。
――それなら、少し乱暴かもしれないが、ああするしかないだろう。俺はそう思ってに声をかけた。


「マルコと勝負?」
「そうだよい」
でも、マルコとは昨日やったばかりじゃん。そう言えば、彼は今回のは特別だよいと言って、私について来るように促した。今の今までイゾウと組手をしていた私はへとへとで正直今からマルコと勝負すると言われても、一秒も持つ自身は無かった。息の整わない様子で助けてとイゾウに視線を送っても、彼は行って来いと言うように顎でマルコを指す。何、もうしんどいんだけど。
私はマルコの後ろを付いて歩いた。どうやらこの道順だと甲板に向かっているようだ。ええ……こんな疲れた状態で日の光に曝されるのは相当きつい。
やだなぁ…と額に浮かんだ汗を拭ってパーカーのフードを被る。せめてものの太陽への抵抗だ。くわ、と欠伸をしながら私の後をついてきたイゾウが「ま、とにかくがんばれよ」と言って、頭をぽんぽんと叩く。彼もマルコの考えにはいまいち理解していないようで、様子見として付いてきてくれたんだろう。
「さて、俺はこれから本気でお前と戦うよい」
「……え、冗談でしょ?マルコ」
甲板について爽やかな秋風が吹く中、私は太陽のじりじりとした熱を感じて目を細めていた。そんな中に聞こえる、マルコの本気宣言に思わず目を見開いて大量の光が目に吸い込まれていった。それに思わず呻く。ああ、痛い。
「流石に最初からじゃお前もきついだろうから、徐々に上げてくよい」
「うそ、どうしてそんなことするの?」
言外に、まだ私はマルコに本気を出させるほど強くないのに、本気で戦われたら怪我どころじゃ済まないという意味を込めて抗議した。今まで私の成長に合わせてゆっくりと鍛錬していたのに、どうしていきなりそんなことを言い出したんだろう。
「マルコ、それは流石にこいつには荷が重てェんじゃねえのか?」
「俺にだって考えがねェわけじゃねェよい」
助けを求めるように後ろについていたイゾウを見上げると、それには彼も同意して助け舟を出してくれた。しかし、ばっさりとマルコに切られてしまって口をへの字にしている。
――そんな……、絶対死亡コースだよ。何かマルコを怒らせるようなことしたっけ?
結局本気の彼と戦うことが決定してしまって、現実逃避するように過去を思い出してみる。けれど、これといって彼を怒らせるようなことをした記憶が無い私は、どうすれば良いのか分からなかった。
「じゃあ始めるよい」
「うそ…ほんとに…?」
軽く準備体操を始めた彼に、何だ何だと甲板にいた男たちが視線を送る。彼が今からと戦うから離れてろいと皆に言うと、なんだ今日もまた組手か、と男たちは私たちに邪魔にならないような所に移動した。
そんな周りの様子に、私はもう逃げられないのだと悟って深く深呼吸した。
――大丈夫……。いや、大丈夫じゃないけど、大丈夫って信じよう。マルコに攻撃させなければ良いんだ。攻撃は最大の防御だってハルタも教えてくれた。マルコに攻撃させる暇を与えなければ私だって十分いける!!
そう勇気づけるけれど、やっぱり目の色を変えた彼の前に立つのは恐ろしい。今にも先程の勇気が挫かれてしまいそうだ。
「最初は軽く流すからしっかり避けろよい」
「え、も―――わ!!」
十歩以上離れていたのに、一気に間合いを詰めてきた彼に驚く。間一髪の所で、繰り出された拳を避けた。あ、あぶな…流すとか言ってるのにもうすでに私じゃ対処できない程の力を込めてる。
彼の力の込められた拳にぞっとしていると、容赦なく目の前に彼の長い脚が現れた。
――蹴られる。そう思って咄嗟にバク転して避ける。掠った髪の毛が持って行かれそうな錯覚を覚えて、私はなるべく彼から離れようと後退りした。しかし、彼が連続で拳を打ち込んできた。到底避けられるわけもなくて、私は腕でどうにかして受け止めるけれど、受け止めた腕が折れてしまいそうなくらい力が込められているそれに船首まで吹き飛ばされ激突した。
「ぐっ…げほっ」
たまたま今日はパパがいなかったから良いけれど、いたらそのまま衝突するところだった。あまりにも一方的すぎる戦いからもう逃げ出したい。けれど、それはマルコが許してくれないのだ。すぐさま立ち上がろうと足に力を入れるけれど、膝が笑って立つことができない。
、本気を出さねぇとお前は死ぬよい」
「しまっ――」
!!!と私の名を呼ぶイゾウの声に目を見開く。目の前にマルコが現れていた。スローモーションのようにゆっくりと見える彼の回し蹴りは、実際はもっと速くてとてつもない力が込められている。それは私の心臓を狙っていて、いくら蹴りとはいえ覇気を込められたそれが心臓にとてつもない圧迫をかければ、私だって死んでしまうだろう。だけど、
――避ける暇もない。彼の脚はもう私の胸に当たりそうだ。どうしよう、逃げなければ。逃げなければ、私は死んでしまう。
生命の危機に追い詰められたその時、私は瞳の奥に熱い火花が散ったような気がした。


 ドォオオン!!!!と激しい衝突音と共に身体に襲ってきた痛み。瞬間的に青い炎が現れて俺の怪我を治していくが、俺はいったい自分の身に何が起きたのか一瞬理解が出来なかった。
見事壊れてしまった船の一部から身体を起こして周りを見渡す。どうやら俺はに止めを入れようとしていた船首からかなり飛ばされたらしい。その瞬間を俺はしっかりと視界で確認していたけれど、実際に理解するまでは時間がかかるようだ。
がらがらと崩れた木片の中から俺が姿を現すと、この場を見守っていた男たちがぽかんとしたアホ面を一様に曝している。あのイゾウでさえも煙管を手から落としていることにさえ気づいていないようだった。
――俺はに止めを刺そうとした瞬間、殴り飛ばされたのだ。殴り飛ばされる瞬間、確かに俺は彼女の目の奥で何かが光ったのを確認した。あれは、きっと彼女の生存本能だ。
こいつらはが俺を殴り飛ばしたということが信じられないのだろう。だが、一番信じられないといった顔をしているのは彼女だ。
「はっ…はぁっ……」
浅い息を繰り返していて、茫然とその場に立ちすくんでいる。彼女が俺を殴る為に力んだ床はそこだけ割れていた。それはそれだけ彼女が力を込めたということを顕著に表している。
口の中が切れて流れた血をぺっと吐き出して、未だ身動きの取れない彼女に近づく。
「大丈夫かい?」
「……わ、わたし、今…」
予めある程度こうなることを予測していた俺はそこまで驚いてはいなかった。しかし、彼女は全く予期していなかったのだろう。俺のことを信じられないといった顔で見上げてくる。俺は彼女の肩に両手を置いて視線を彼女の所まで落とした。
「今の感覚を忘れるなよい。それがお前の力だ」
「――私の、力……」
ぽつりと呟いた彼女の身体はぐらりと傾いた。意識を失ったわけではないが、咄嗟に身体を支える。
少し無理をさせ過ぎたか。しかし、こうでもしなければきっと彼女は本来の力を出すことはなかっただろう。かなり乱暴で強硬策だったが、彼女に生命の危機を覚えさせなければここまでは到達しなかったに違いない。

――とりあえず、第一関門突破だ。


2013/04/20
あの白が、離れない

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