02 a moment

 今日も今日とて、私は鍛錬に勤しむ。今日の指導者はハルタ。この前のイゾウのようには厳しくは無いが、彼は彼で十分厳しい。
「ほら、いち、に、さん、し」
「はぁ、はぁっ、く…っ」
イゾウの場合、ペースダウンすることはあまり咎められない。だが、ハルタはそれを咎める。少しでも私の動くスピードが遅くなるとぱんぱんと手を叩いて私にそれをアピールする。途切れがちになる息を整えている暇もない程、彼はそうやって私を追い込むのだ。因みに今はミット打ちを二時間続けている。私の動きに合わせて彼がミットの位置をずらしてその衝撃を容易く殺される。単調な動作と思うなかれ。
彼は私の攻撃が単調になると、ミットを手に付けたまま攻撃してくるのだ。容赦なく私のガードのない身体目掛けてやってくる攻撃が怖くて、私は同じ動作を繰り返すことが出来ない。そのせいで頭も使うし身体も酷使するし、二重に疲れが回る。
「おっ、今のパンチ切れがあって良かったなァ」
「!!う、ん!」
でもたまに彼は私の攻撃を褒めてくれる。それが嬉しくて私は顔を綻ばせた。辛いけど、その中で彼が褒めてくれることは私のやる気の維持にも繋がる。イゾウの徹底的に痛めつける教育とは違って、彼は褒めて伸ばそうとするのだ。はぁ、はぁと熱い息を吐きだしながら、拳を叩きこむ。ばしん、という音と共に「よし、次は組手な」と彼がミットを付けた手を下げた。
「疲れた…」
「疲れてる暇ないぞ。さ、来いよ」
ミットを拳から外した彼が、私の攻撃を待つ。彼は真正面から向かって来た私の拳を軽くいなした。そのまま、私が避けきれるギリギリの速さで横顔すれすれに拳を突き出す。すっと掠めた拳に心臓が踊った。
「あっ、ぶな、」
「ほら、ビビってないでかかってこい」
一旦彼から離れてしまった私を呼ぶ彼。女の子の顔目掛けて拳を突き出すなんて。そう思っているとそれが顔に出たのか「避けられるように手加減しただろ?」と彼が苦笑した。確かにそうだけれど。むっとしたまま再び彼に向かっていく。彼はイゾウとは違って、長時間組手を続ける傾向になる。長時間私が続けられるのは彼が実力の半分も出さないで、私に避ける動作を覚えさせるためだ。イゾウの時に痛みを覚えて、ハルタの時にその痛みから逃げる為に避ける。そんな循環が出来ていて、私はこの指導者たちのタッグが良いものなのだと最近気づいた。
「ほら、右、左」
「ッ!!わ!」
打ち込まれた拳を避けることが出来ないと瞬間的に理解した私は、彼の拳を左腕で受けた。十分手加減されている筈なのにびりびりと腕に痺れが走って、恐ろしくなる。
「避けろー」
「む、り!!」
しゅっと速く繰り出された彼の脚が私の右わき腹を捕えた。どんっと彼の脚によって吹っ飛ばされた私はごろんと床に転がって身悶えた。
「大丈夫か?」
「うん…」
生理的にじわりと浮かんだ涙をしぱしぱと瞬きする事で霧散させる。私を覗き込んだ彼は心配そうな顔をしていた。ああ、申し訳ないな。ハルタは優しいから特訓とはいえ私が痛がると同じように痛そうな顔をする。早くハルタにこんな顔をさせなくて済むように強くなりたい。そう思いながらまだ組手を続けようと立ち上がると、彼は今日はこれでお終いにしようと言って私の手を引っ張った。
「今日は前より避ける回数が増えたから料理長に何かおやつ作ってもらおう」
「本当?やったあ」
汗でしっとりしている私の手を、何も気にしないような態度で引く彼に身を任せる。くたくたな私は彼に手を引かれていなければそこら辺の床とこんにちはしてしまいそうな状態だ。
私は料理長の作ってくれるおやつに思いを馳せながら、彼の後をついていった。


 薄暗いバーに集う何名もの男女。普通の人間なら相手の顔を薄ぼんやりにしか見えない程の光だが、彼らにはお互いの顔がはっきり見える。なぜなら、彼らは吸血鬼だからだ。
からん、とウイスキーの中で漂っている透明な氷が揺れて軽やかな音を作り出す。しかし、このバーの中の空気は決して軽やかなものとは言い難い。
この店のマスターの男――彼もまた吸血鬼だ――がちらり、と円卓を囲んで向かい合っている彼らに視線を送る。きゅっきゅとグラスを綺麗に磨く手は狂いが無い。
「やっと、この人数が集まったか」
「この海は広いからね。これだけの人数が集まったことの方が珍しいよ」
ふと、今までグラスを傾けていた手が止まり、中心と見られる人物が話し出す。それを機に、彼らは話す姿勢に入ったようで、手に持っていたグラスをこと、とテーブルの上に下ろした。
「我が君の覚醒は世界中の吸血鬼が知っている。覚醒を促したのがあの貴族然としていた奴らだと思うと虫唾が走るが……」
「しかもあいつらまんまと我が君を奪われちゃって」
何百年待ち続けていたと思ってるんだ。そう唸るような声で続けられた言葉。そこには、抑えきれない怒気が含まれている。それには、周囲の者たちも同様に顔を顰めて舌打ちをしそうな勢いだ。
しかし、もう終わったことに対して文句を言っても仕方がないと一人の男が声を上げたことによってその場の剣呑とした雰囲気は徐々に収まっていく。
「我が君は覚醒してまだ間もない。誰かが教育係になる必要があるな」
「そうだねェ。できればここにいる奴が良いんだけど」
――派閥争いが酷いからね。そう付け加えられた言葉に、彼らは確かにそうだなと頷いた。吸血鬼の世界ではめったに派閥を作ることは少ないのだが、一度その派閥が出来ると勢力拡大の為に色んな手を使うのだ。その中でも、王の側近という地位を得た派閥は他の吸血鬼たちよりも必然的に重きを置かれるようになる。だから、彼らは是が非でも王の傍に近づきたいと思っていた。
「力も知識もある人物でなくてはならない」
「それなら…最適なのはお前だな」
円卓を囲んでいる吸血鬼一人一人を見渡し、その顔をじっくりと眺める。その中で、指された一人の吸血鬼は「そうと決まったのなら早速、我が君の居場所を探してくる」と言い、薄暗いバーを出て行こうと腰を上げる。
残る彼らは皆グラスを持ち上げてこう言った。

「“来たる日”のために」


「おーい、!」
「なーに?エース」
談話室でよくつるむ男達とお喋りに興じていた私は、談話室の扉から顔を覗かせた彼に顔を向けた。彼は、もう特訓終わったんだなと言いながらこちらに近づいてくる。それにうんと返せば、「じゃあ今俺も暇だから付き合ってやるよ」と目的語のない話題を私に振った。だけど、それだけで私には通じる。男達は何をだ?と首を傾げているが、特訓と返せば「またやるのか?」と呆れられた。彼らはまたというが、これは先程までの特訓とはまた違うものなのだ。出来る事なら、完璧にできるようになってから皆に教えたいから、今はエースにだけ指導者を頼んで特訓をしている。
「じゃあまたね」
「おう、ほどほどにしとけよ!」
「ぶっ倒れられても困るからな!」
わはは、と笑う彼らの元を後にして、私たちはエースの部屋に向かった。私の部屋だと何かとサッチやマルコがやってくるし、資料室だと万が一ということもある。それなら隊長としての彼の部屋を使うのが一番安全だろうと考えた結果だ。
「あー、汚ェけど気にすんな」
「今更でしょ」
彼が部屋に入る直前にへらりと笑って忠告してくる。そんなの本当に今更で――なんていったって、何度も彼の部屋にはお世話になっているから――そう返せば、彼は「おい」と冗談で怒ったふりをした。
ああ、でも確かに彼の部屋は散らかっていた。今度秘密の特訓のお礼として彼の部屋を掃除してあげようかな。
「よーし、じゃあやってみろ」
「うん」
彼に勧められたソファに腰を下ろして目を閉じる。その直前に彼も目の前のベッドに腰掛けたのが見えた。
“これ”をする時はなるべくリラックスできる姿勢でいた方が良いというのが私の見解だ。上達すればきっとどんな姿勢でも出来るかもしれないが、私にはまだ無理だった。独学、つまり手探り状態で進んでいるわけだから、時間がかかっても仕方がないとは思うが。
そんな考えを頭から払拭して、ある動物を思い浮かべる。それは猫だ。私にとっては馴染みの深い動物故に想像することは難しくない。猫にとって必要なもの――耳、前足、後ろ脚、尻尾、毛、と順番に猫の身体的特徴を頭の中で何度も想像する。
「どう?」
「うーん、まだ耳と前足しか変わってねえな」
ぱちりと目を開けて彼に問う。確かに、今の私は手と耳しか変化していない。まだまだ猫本体には遠いその身体付きにどうしたものかと考えた。でも以前より変身にかかる時間は短くなった気がする。彼もその点には気付いていたのか、同じことを言ってくれたから、強ちこの特訓も無駄ではないのだなと思えた。
「お前、前までは耳しか変わらなかったからな。ちょっと触らせてくれよ」
「良いよ」
私の前にまで来て猫の耳を触っていた彼が、肉球を触らせてくれと言い出した。わくわくしている彼に、肘下までは猫の腕に変わったそれを差し出せば、ぷにぷにと肉球を押してくる彼。ははっ、柔らけェ。楽しそうに笑う彼は、飽きもせず私の手を触り続けた。しかし、もうそろそろ私の集中力が切れ始める。
みるみるうちに本来の人間の腕に戻ってしまったそれに、「大体二分ってとこだな」と彼が呟いた。客観的に見てみると以前より猫の姿を(―部だが)維持できる時間が伸びている。自分だけで特訓をしていると、どうしても主観的になりやすいから、彼がこうやって私の特訓を見てくれるのには感謝していた。
「焦りは禁物だ。ゆっくり行こうぜ」
「そうだね、ありがとう」
頭をわしわしと撫でる彼を見上げる。彼は私が何となく焦っているのに気が付いたらしい。ホント、エースは私の感情の機微には鋭い。女心なんて到底理解しているようには見えないのに、彼はそういう感情の機微にだけは鋭く気付いてくれて諫めたり励ましてくれるのだ。
「んじゃ、遊ぼうぜ!」
「良いよ、何する?」
息抜きも必要だ。そう大きく宣言した彼が部屋から元気よく飛び出す。私もその後ろ姿を追って甲板に向かった。
今日も、モビーディック号には私たちの楽しげな声が響き渡る。


2013/03/16
時間は、有限だ。

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