01 あなたが空なら、私は空に包まれる小鳥だった。

 偉大なる航路のある海峡を、白ひげ海賊団の船は何者にも遮られることなく進んでいた。その船の周りには時折一角を持ったイルカが顔を覗かせて楽しそうにしている。


――が十八歳を迎えてから数週間、彼女の日常は以前と変わらずにあるように思われた。だがいくつか変わったことがある。
、朝だ。ご飯食いに行こうぜ」
「んー…おはよう」
一つ目は、彼女に一人部屋が与えられたこと。真の吸血鬼となってからめっきり朝が弱くなってしまった彼女を起こしにくるのは、いつもサッチかマルコだった。寝ぼけ眼な彼女がゆっくりと着替えるのを、サッチは大きく欠伸をしながら待つ。彼の欠伸が移ったのか、彼女もふわぁと欠伸を漏らした。
「お、起きてたかい」
「あ、マルコ。おはよう」
自分の部屋を叩く音がしたと思えば、マルコがおはようさんと言いながら入って来た。サッチが先に私の元に来て起こしてくれたことを、この状態を見て察した彼は今日はお前だったかとサッチの隣に立つ。いつものフード付きパーカー――何だかサッチの好きな動物系パーカーから卒業する機会を逃してしまった。なんだかんだで私には便利なのだ――とスキニージーンズに着替えた私は二人と共に部屋を出た。私よりも先に部屋を出た彼らが私を振り返る。私は二人の視線の意味を理解して、そっと彼らの手を握った。
マルコが私を見下ろして穏やかに笑う。私はそれが嬉しかった。どちらともなく強くなった、手を繋ぐ力。
「イチャイチャしやがって」
「なに、サッチ。やきもち?」
隣で言葉もなく微笑みあっている私たちを見て、サッチが唇を尖らせた。彼とだって手を繋いでいるというのに、全く我が儘な男だ。むすっとしている彼の顔を下から覗きこめば、彼は不意打ちで私の額にキスを落とした。何事だと彼を見返せば、悪戯が成功した子供のような顔をしている。
「って、あ!テメ、何拭いてんだ!!」
「マ、マルコ、痛い」
だが無言で私の額を袖でごしごしと拭くマルコ。サッチが慌てたことによって、彼はくつくつと笑っている。
「イチャイチャ…って、こっちの台詞だっつーの」
「あ、エース。おはよう」
呆れたような溜め息と共に現れた黒髪の青年に私は挨拶をした。よう、彼はそう手を軽く上げる。しかし、朝からサッチのキスシーン見ちまった。そうげんなりしながら言う彼にそう言われた本人は何だと!?と突っ掛かる。私の手を離してエースを追いかけ始めた彼につい笑みが浮かんだ。
「サッチより俺の方が速いのに、追いつけるのか?」
「なめやがってこのガキが!」
げらげら笑い朝から元気よく走り回る彼ら。私たちを置いてドタバタと食堂に走っていった彼らに、私たちは顔を見合わせた。
「元気だね」
「ったく、あいつら朝からうるせえよい」
はあ。呆れたように溜め息を吐いたマルコはしかし、私の顔を見て小さく笑んだ。その笑みの理由はわからない。私たちの心は以前より距離が開いてしまったから。しかし、徐々にお互いを理解できるようにまで戻ってきた。だからだろうか、最近は焦燥感や不安に苛まれることなく、彼との関係を良好に続けている。そのおかげで、あの悪夢も最近では見る回数が減った。私に一人部屋が与えられた理由の一つにそれも含まれるだろう。だが、今でもサッチと共に寝ることはよくある。段々と夏島から秋島に近づきつつあるモビーに、日に日に外の空気は冷たいものに変わっていく。それのために、寒がりな彼は私のことを湯たんぽ代わりに私を抱きしめて寝るのだ。私の方が彼よりも体温が低いのにね。
「おはよう料理長」
「おう、おはよう
騒ぎ立てていた二人が先に食堂に入って既に食事をトレーに乗せてもらい、席に着いていた。私は料理長にバランスの良い食事をいつも通り乗せてもらって、彼らが待っている席に着く。
エースの隣に腰を下ろした私に刺さる二つの視線。マルコからやってくる視線はそこまで強くないけれど、サッチのそれは逃げることを許さないと物語っていた。私、何かしたっけ?そう思い返してみるが、別に変なことをした記憶は無い。
「お前ら、本当に付き合ってないんだろうな?」
『は?』
エースと私の声が見事に被る。今まさに料理に噛みつこうとしていた彼は、そんな言葉をサッチから投げつけられて開いた口を閉じることができていない。隣にいる彼と、暫し見つめ合う。お前、あの嘘のこと言ってなかったのかよ?いや、言ったってば。そんなやりとりをしているだけなのだが、サッチにはただイチャイチャしているようにしか見えなかったらしい。先程よりも目付きが鋭くなる。
「おいこらエース…、」
「ああ、付き合ってないから!」
「本当、本当」
今にもエースに掴みかかりそうな勢いの彼に、二人してあれは嘘でした!と弁解する。その嘘のせいでどれだけ大変なことになったのか覚えている私は、引き攣った笑みになった。マルコもそのことをよく覚えているからだろう、何だかこの話題にはあまり触れたくなさそうに一人黙々と料理を食べている。
「お前ら仲良いからよお……」
「あー、うんうん」
ぶつくさと言い続ける彼に、エースはこいつ前からこんなんだったっけ?と視線で訊いてくる。私もこんなに面倒くさいサッチなんて初めてで、いや、ないよと首を横に振った。いったいどうしたというのだろう、今日のサッチは。好きな女に振られたとか?何か変なもの食べたとか?そのどれも当てはまらないような気がして、私はしょんぼりとしている彼の顔を見つめた。
――そういえば、最近マルコが私に関して色々言わなくなった代わりに、彼がああだこうだ言い始めたような気がする。夜遅くまで起きるなだとか、きちんと鍵は閉めろだとか。
未だどことなくじと目で私たちのことを見つめてくる彼に、ああそういうことかと合点がいった。彼は、マルコが私にきつく物を言えなくなった代わりに自分が私のことに色々と干渉することにしたらしい。きっと、私たちの関係を色々考えた結果そうなったのだろう。
そう気付けば、彼のそんな行動が愛しいものに思えた。
「誰かと付き合うことになったらちゃんと言うから」
「本当か?」
本当。尚も私のことを疑いの目で見てくる彼に、右手の小指を差し出す。そうすれば、彼は左手の小指を絡ませてきて、私たちは「指切りげんまん」と歌を歌った。そうすることで、彼の心は落ち着いたのか食事を始めた。
決して器用ではないのに、私たちのために頭を回しているサッチ。私も、彼の幸せを願えるように成長したいものだ。
「ほら、朝飯だよい」
「ありがとう」
そっと差し出されたマルコの手。それは、今までの会話が会話なだけに少し戸惑いがちだったけれど、私は彼に不安を与えないようにその手を取って、人差し指を口に含んだ。


 私の生活で変わったことの二つ目。それは、鍛錬を始めたこと。
「はぁ……っ、はぁ……ッ!!うぅ…」
「ほら、もっとしっかり腕を曲げろ」
今日の指導者はイゾウだ。まずは体力を付けることが先決だと筋トレを始めさせられた私は、吸血鬼の力をものにしようと努力している。だが、如何せん私には体力が無い。今もトレーニングルームで腕立て伏せを彼の監視の元にやっているのだけれど、数十回でバテそうになる。そこを、今まで時間の有効活用として書類の整理をしていた癖に彼が目ざとく指摘するものだから、私は少しの休憩を取ることも出来ずに腕立て伏せを続けることになった。
ぽたぽたと額から汗が滴り落ちる。何時間もこうやって筋トレばっかりしていたら、こうもなる。つい先週までは何事もなく遊びほうけていた私は、急にマルコとサッチからいざという時のために身体を鍛えた方が良いと言われて、こんなことになっていた。元々筋肉なんて無いに等しい私には、この鍛錬は地獄のようだ。しかも、指導者がイゾウなら一際。
ハルタの時はもう少し優しさというものが垣間見えるのだが、彼の場合そんなことはまず無い。
「良い顔してんなァ」
「う…っ、さい!」
ドSめ!!私が疲労に耐えている顔を見てくつくつと笑っている彼にそう叫びたい。だが実際は切れ切れにしか彼に文句を言うことは叶わない。早くイゾウを打ち負かせるくらいの力を身に着けたい。それはいつのことになるのか全然分からないけれど。
この部屋にはもちろん私たちだけではなく、他の男達もいる。鍛錬にいそしんでいる彼らは、隊長が一人この部屋にいるということだけで士気が上がるのか、俺たちのことも見てくださいよと彼に声をかけていた。だが、彼はテメェら一人で出来るだろうがと言う。確かにそれはそうだ。彼らは誰かに見張られていなければ鍛錬できないような弱い意志を持っているわけではないのだから。しかし私は知っている。彼は彼らが苦しむ顔よりも、私が苦しむ顔の方が好きなのだ。何て、何てドS。幼気な妹を公的に虐めることを認められた彼の顔付きと言ったら。
「何だァ?何か不満がありそうだな」
「べ、つ…にっ?」
私の心中を分かりきっているくせに、そう訊く彼は意地悪だ。はぁはぁと息も絶え絶えな私のことを見下ろしながら彼はそろそろ終わりだと声をかける。
――来た。私は腕立て伏せから解放されたのに、顔を歪めた。
何故ならこのへとへとな状態で、イゾウと組手をしなければならないのだ。それは鍛錬が終った後に必ずやってくる嫌な項目。比較的手加減が出来るイゾウとハルタを筆頭にその組手は毎日行われる。手加減できるが、私を思う故に手加減をしないマルコや元々手加減なんて出来ない全力投球なエースとは、三日に一度対戦させられた。その度に私はこてんぱんにやられる。あれは、一週間で一番嫌な日だ。
因みにサッチは寄って集ってお前を苛める奴が沢山いるのに俺まで入る必要はないと言って鍛錬に関しては甘やかす指針を持っているらしい。言いだしっぺの癖に。
「よし、始めるか」
「はぁ…、も、」
無理。そう言いたい言葉をぐっと堪える。この鍛錬は自分だって望んだことだ。それなのに、泣き言を漏らしたくない。はぁ…と荒い息を落ち着かせるように深呼吸する。彼は私が深呼吸している間呑気にストレッチをしていた。さて、行くか。どうせ休憩したって簡単に体力が戻ってくるわけがないのだ。それならさっさと終わらせてしまった方が良い。
お嬢がんばれー!後ろで聞こえる男達の声援に、力強く頷く。まだ彼の足元にも及ばないが、以前よりも成長したのだと自分に示したい。
「来いよ」
「言われなくても!!」
ちょいちょい、と指を動かす彼に足を踏み出して蹴りを入れる。基本初めの方は避けたり受け流している彼は、今回も同じように私に好き勝手させてくれた。戦い方を知らない私に、どのような攻撃方法が一番効果的なのかを自分で考えさせる為だ。
ひょいひょい私の攻撃を躱し続ける彼に苛立ちが募る。戦いにおいて、短気になることは良くない。短気であればあるほど相手に足元を掬われる可能性が高くなるからだ。だけど、今の私は鍛錬で身も心もくたくたに疲れ切っている状態だ。少しのことでも苛立つ原因になる。
「あ、たれ!!」
「あー、今日はここまでだな」
私の渾身の回し蹴りを楽々と避けた彼はそう呟いて私の腹部に拳を入れ、次いでよろめいた私の背中に蹴りを入れた。彼にしては軽く入れたつもりのものでも、私にとっては受け止めることができない強さで、そのままどんっと床に転がった。
ごほごほと噎せている私の所にやってきた彼がしゃがみ込んで、私を見下ろす。
「いたい……」
「そりゃそうだ。敗けたら痛いのさ」
――だから、敗けないように強くなれ。彼の言葉は尤だ。こうやって、痛みを覚えさせて身体が自然に避けることが出来るように教えてくれる。彼の言葉に倒れたままうんと頷けば、彼は満身創痍で動けない私のことを担ぎ上げて船医のイリオスの所まで運んでくれた。
鍛錬が終った後の彼は、こうして面倒見が良いから少し嬉しい。私のことを嬉々として虐めるけれど、なんだかんだで良い兄貴なのだ。


私はまだまだだなぁ。


2013/03/11
何よりも愛しいその微熱

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