悟が自分の身体の中にある好意を口に出すと、は顔を赤らめた。以前までは口にするたびに制されていたけれど、時がたった今はそれを受け止めてくれるまでに至った。その進みはごく一般的な恋愛に比べるとだいぶ歩みが遅いと思う。けれど悟はそれで良かった。彼の蠱惑的な瞳が弧を描く。
端から彼女を他の男にやるつもりもないし、ゆっくりと籠絡していくつもりだったから。


淡く青く儚く



サラリとした髪を一つにまとめて腰の帯刀に手を添える女、は七海の1つ上の先輩であった。そういえばもうすぐ彼女の誕生日だったはずだ。今年で26歳になる彼女は学生の時に比べると髪型も化粧も垢抜けている。
今日は、七海とと卒業したての猪野の3人で任務にあたることになっている。猪野はと初対面である為、七海は簡単に彼女を彼に紹介した。
「猪野くん、彼女は1級呪術師であり私の先輩のさんです。」
「初めまして!猪野です。噂はかねかがね聞いてます。」
「初めまして、猪野くん。今日はよろしくね。」
目をきらめかせて手を差し出した猪野に、彼女は穏やかな笑みと共に手を握り返した。ひとまず挨拶も終えたところで、と神社へと向き直る七海。今日の任務は神社で封印していた呪霊が宮司の突然死により、封印の力が弱まり解き放たれたのを祓うというものだ。1級クラスが数体解き放たれてしまった為、1級呪術師2名と猪野で挑むことになった。

隣に立つは瞳を黄金色に光らせて術式を発動した。その美しさに、七海はサングラス越しに目を細める。五条の六眼も見た者を畏怖させるような美しさだが――本人の前でそのことは死んでも言いたくない――彼女の術式発動中の瞳もまた劣らずに見入ってしまうようなものだった。
「これが噂の…」
「猪野くんが大怪我してないと良いんですがね」
七海の隣で「おお」と口を開けて目をきらめかせる彼のアホ面を拝みながら、七海は軽いジョークを飛ばした。わずか2秒の間に何千、何万という未来の中から最善手を選んだ彼女。術式はそのままにして七海と伊野の顔を見て頷く。
「大丈夫、祓えるわ」
「よっしゃ!」
彼女の言葉に猪野がガッツポーズを取る。だが、それは彼女が選んだ最善手を自分たちが行ってこそだ。油断するわけにはいかない。そう彼に伝えようと口を開きかけたが、なぜか表情が硬い彼女が口を開いたことで、一旦口を噤む。
「ただ、猪野くんが髪の毛を失ってしまうの。頭頂部だけ…」
「ええ?!」
神妙な面持ちで猪野に告げられた言葉。それに彼は分かりやすく目を驚愕に見開いた。だが、七海は分かっている。彼女の今の言葉は冗談であると。彼女が言いにくい本当のことを言う時は左手で柄の部分を触る癖があるから。
「冗談よ。緊張をほぐそうとしたの」
「逆にドキドキしましたよ!」
「今ので分かったと思いますが、さんは時々変な冗談を言います」
にこり、と邪気の無い笑顔を浮かべて告白したに、猪野は翻弄されている。緊張を解そうとしたわりにその冗談は笑えない。男性にとって、頭頂部のみ禿げるというのは精神的に大ダメージを食らうからだ。
ふうと一息ついて、彼女の冗談のチョイスが下手なことに言及すれば、彼女はかわらず笑みを浮かべたまま「本当?」と驚いた様子を見せた。


まだ七海が高専に入りたての1年だった頃、と共に任務を受けたことがあった。五条悟などの、真似したくてもできない人種ではなく、模倣できる人間の無駄のない動きを学んで来いという担任の見計らいによるものだった。
その時はまだ2級呪術師だったが、格上の1級呪霊を祓ったのを七海は今でも簡単に思い出せる。
――無駄のない、洗練された動き。自分よりも格上の呪霊を最短で祓う為の道順を彼女は辿っていた。術式故の洗練された動きだと分かっていても、術式が見せた未来を模倣する為の体術を会得するのは苦労しただろう。だが、その苦労を感じさせぬ動きで敵の攻撃を最小限の動きで避け、首を刎ねた刀。
七海はもともと動かなくて良いと言われていたが、入り込む隙間もない戦い方だった。一挙手一投足が計算されつくされており、演武を見ているかのようであった。傷一つ作らず祓い終えた彼女が刀を振って鞘に戻す。
未来が見えるとはいえ、派手な術式ではないため、頼れるのは自分自身の体術になる。七海にはこのしなやかな身体のどこにあれほどの力が秘められているのか不思議だった。
黄金色だった瞳が元の飴色に戻るのが、まるで黄昏時の太陽のようだ。七海にしては珍しい思考に陥りかけたが、彼女の実力と等級の差に疑問を持ち彼女へと近づく。
先輩は何で2級なんですか?」
「家に出された条件をクリアしてないから。それがクリア出来ないとどれだけ呪霊を祓っても意味が無いの」
この場から足を動かしながら、彼女は特に事情を隠すことなく七海に教えてくれた。家が出した条件――それは能力の向上であり、ある一定のラインを越えなければ1級の資格なし、と邪魔をされる為、推薦自体今のところは誰にもお願いをしていないらしい。
「勿体ない…強いのに」
「でも悟くんたちにはまだまだ及ばないよ」
隣に立って歩く彼女の旋毛を見下ろす。斜め上から見える彼女の横顔は穏やかなものだ。五条悟や夏油傑のように強大な力を持っていないことを冷静に受け止めているのだろう。あんな化け物じみた強さを持つ者が身近にいながら無力感を抱かず生きていけるのが羨ましい。

彼女の香水がほのかに香るのを感じながら、補佐官が待つ車に向かっている途中、前方に見覚えのあるシルエットが見えて七海は途端に顔を顰めさせた。
―!あと七海!任務終った?」
「悟くん、どうしてここに?」
小走りで駆け寄ってきたのは五条悟。噂をすれば何とやら、か。七海は先ほど彼の話題に繋がる発言をしたことを後悔した。この男のことは嫌いというわけではないが、苦手意識を感じているから出来る事ならなるべく一緒に行動することは避けたかった。だが、五条が来たことにより嬉しそうな顔をして無事に任務を終えたことを伝える彼女。逃げるのは無理そうだ。
「傑から今日はがここにいるって聞いたから。」
「そうだったの。それなら一緒に帰りましょ」
自然に七海との間に入り込んでに笑いかける彼。それを見て、七海は察した。この男は彼女のことが好きなのだ、と。後輩の男と二人きりという状況が心配だったのか様子を見に来たついでに牽制しようとしているのだ。
心の声が大きかったのか、七海に顔を向ける彼。その笑みはに向けるものと大差ないものだったが、サングラス越しにかち合った瞳は笑っていなかった。
――ああ、面倒くさい。
七海にしては珍しく抱いた憧憬の念は、その時彼の心の隅にひっそりとしまわれることになってしまった。


の指示に従って行動した結果、猪野に学習させるチャンスを与えながらも最短で呪霊を祓うことができた。時刻は17時半。今日は残業もせずに帰れることが決定した七海は、表面上分かりにくいだろうが機嫌が良かった。
そんな彼に猪野が近づいてきてその耳に口を寄せる。
さんって彼氏いるんですか?」
「………あの人はやめておきなさい」
前を行く彼女の背をチラチラ見ながら、キラキラした瞳を隠そうとしない彼。分かりやすいにも程がある。大方、彼女の戦い方を見て彼女に魅了されたのだろう。先輩として後輩の恋路は邪魔したくないが、脳裏をチラつくあの男。悪いことは言わない、と彼の肩にぽんと手を置いた七海に、彼はキョトンと見上げる。
「え、もしかして悪女とかですか?」
「その方がまだマシですよ。彼女に手を出したら呪術師最強が殺しにやってきます」
「な、なるほど…」
意味を理解していない彼は彼女の悪女説を仮設として立てるが、ふうと溜息を吐いた七海の言葉によってその顔はげんなりしたものへと変わった。誰しも呪術師最強が殺しにやって来ると分かって、彼女に手を出そうとは思わないだろう。
――それに、さんはまだあの男を忘れていないだろう。
猪野には言えなかった言葉は胸の奥底にしまい込む。前を行く彼女が「何を話しているの?」なんて振り返る瞬間、彼女の瞳が太陽に照らされて輝く。黄昏時の太陽。あの時のようだと彼は小さく笑って「いえ、くだらないことですよ」と彼女に応える。
ふと、不思議そうに首を傾げる彼女の背のはるか向こうの道に見慣れたシルエットが立っているのが目に入る。ああ、本当にあの時のようだ。七海の小さな、小さな憧憬を摘まれた時の記憶が蘇る。だが、あの時とは違ってゆったりとした歩きでこちらに向かってくる男。
「なーなみ、。お疲れサマンサー」
片手をヒラヒラと振る彼に、が笑みを向ける。迎えに来たよ、なんて笑う彼の目元は包帯で隠れていて見えないけれど、きっと彼女を見る目は穏やかなものなのだろう。この男にこんな顔をさせることができるのは、たった一人しか知らなかった。だけなのだ。
――いい加減、あの男を忘れさせろよ。
七海は口汚く罵りたくなる自分を律していつも通りの顔で彼に挨拶をした。この男にあの時のような余裕の無さは感じられない。きっと、七海が知らないところで、二人の関係は少しずつ形を変えて近づいていっているのだろう。


2020/12/18

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