鏡の中の私の心

 レーム帝国に突然来てしまってから数日経った。は基本的に、食事の時以外は自分の部屋から出ようとしなかった。食事の時にシェヘラザードに会えると思っていたのだが、彼女はその地位ゆえ多忙なようで、の食事の時間とは合わないようだった。料理はとても豪華だというのに、一人で食べる食事はとても味気なく感じられた。
 窓辺のソファに膝を立てて座る。膝に額を乗せて目を閉じる。特にやることのない彼女は見知らぬ外に出ることが怖くて引き籠っていた。じめじめとした気分では考えることもじめじめとしたもので、彼女は憂鬱に身をゆだねることしか出来ない。
そこにコンコンと響くノック音。
「失礼するのだ」
可愛らしい声と共にこの部屋に入ってきたのはムーと同じように赤い髪の毛を持った女の子だった。ぱっちりとした瞳でのことを見つけ、とことこと近づいてくる。
ぽすっとすぐ隣に腰を下ろした彼女にびくりと肩が跳ねた。
「僕はミュロン、よろしくなのだ!」
「???」
好意的な様子で手を出した彼女に、言葉が分からないなりにこちらも手をそっと差し出す。そうすれば、彼女はその手を握ってぶんぶんと力強く振った。この細い身体のどこにそんな力があるのかとは吃驚する。
「僕の名前は?」
「??」
手を解放してミュロンは彼女自身を指さす。再び首を傾げるに、彼女を指したままミュ・ロ・ンと何度も繰り返す。もしかして、みゅろんとは彼女の名前なのだろうか。我慢強く何度も繰り返す彼女に、は「みゅろん?」と小さく呟いた。そうすればにっこり笑う彼女。どうやら正解だったらしい。
お次はとを指した彼女が求めていることは名前なのだろう、と彼女は「」と言った。それに頷いて立ち上がる彼女。
!外に行くのだ」
「みゅろん?」
ぐいとの手を引っ張って立たせた彼女は扉に向かう。まさか外に行くのだろうか、と慌てれば彼女は身振り手振りで部屋にいると主張する彼女のことを「部屋に引きこもってるからウジウジするのだ」と抱き上げる。
わっ!?と彼女の怪力ぶりに目を丸くして彼女の肩にしがみ付く。ミュロンはそんな彼女を見てにっと笑う。シェヘラザードよりは大きいがミュロンと比べたら小さな身体をしている彼女を片手で持ち上げることなど容易い。何せ彼女は岩の塊を持ち上げられる程の力を持っているのだから。
を落さないようにと腰と足を支えるミュロンに、彼女は自分の世界でも一度としてされたことがないことに顔を赤くして周囲を眺める。
少しばかり高い位置から見渡す風景はいつもの自分の視界と違って何もかもが目新しく映った。
『わっ高っすごい』
「嬉しいのだ?」
表情を明るくしたを見てミュロンも浮き足立つ。兄のムーから面倒を見てやってくれと頼まれたが、案外異世界人とは普通の人間だったのだと彼女は安心する。
中庭に辿り着くと、そこにはファナリス兵団の者たちが数人集まっていた。ミュロンの気配を察知したのだろう、振り返った彼らには「あっ」と小さな声を上げる。
皆ムーやミュロンと同じ髪色と似た目元である。もしかして、この人たちがシェヘラザードの言っていたファナリス兵団という者たちなのだろうか。
ミュロンに抱えられた状態のままで彼らを眺めていれば、彼らはミュロンからへと視線を移す。
「紹介するのだ。彼女は異世界人の。壊さないように優しくするのだ!」
特にロゥロゥ!と名指しで呼ばれた彼はああ?と不機嫌そうな顔になる。は普通の人間以上に柔らかいから野蛮人に扱われたら簡単に死んでしまうのだ。
突然ミュロンが野性的な男性とバチバチ火花を飛ばし合う様子には慄く。何せ、ミュロンに抱えられているせいでその男性とは距離が近かった。まるで野獣のように歯を剥き出しにしてミュロンを睨む彼に、ひええと彼女の頭にしがみ付いてしまったのは許してほしい。
「あー、ロゥロゥが怖がらせた」
「もっとすごいのかと思ったら普通の子供じゃねえか」
『わっ近っちょっと』
可愛い顔に傷を負った女性と垂れ目の青年が至近距離からを眺める。彼らの言葉を全く理解できない彼女にとっては彼らの態度はロゥロゥと同じように心臓に悪いものだった。

 一時間程彼らに揉みくちゃにされたは漸く彼らの名前を知ることが出来た。野性的な男性はロゥロゥで顔に傷がある女性はラゾル、垂れ目の青年はヤクート。その他にいた人々の名前もどうにか覚えた。
世界共通語が話せないだったが、日本語で話しても何故か少しばかり通じているようだった。それは偏に彼らがファナリスという普通の人間に比べたらあらゆる感覚に鋭い種族だったから、彼女の雰囲気で何が言いたいのか予想できたのだろう。
そしてその短い間にも彼女は少しばかり彼らから言葉を教わった。
「最初はグー、じゃんけんぽん!」
「!?」
だがそんなに簡単に彼らの行動までが分かる筈がなく、はいきなり拳を出し合った彼らに会わせてグーを出した。皆に合わせて拳を出したのだが、これはじゃんけんだったようでグーの他にもパーやチョキがある。相子でしょ、という掛け声に合わせてチョキを出せばを含めた5人がチョキで、残ったヤクートが一人パーだった。
「!?」
それを見た瞬間その場から散り散りに走り出すミュロンたち。ぽかん、と呆気にとられる。
!逃げないと捕まるのだ!」
全く理解出来ないものの皆と同じようにヤクートから離れる。これはいったい何をしているのだろうか。しかし何かぶつぶつ言っていたヤクートがそれを終了させ、走り出す。そこで漸くはこれが鬼ごっこであるのだと気付いた。
しかも彼は明らかにを狙っている。柔らかな笑みを浮かべているものの、瞬時に間を詰めた彼。
うわっ、速っ!?!
「やあー!やくーといや!」
「何いじめてんのー?」
「いじめてねーよ!」
必死になって彼に追いつかれないように走るけれど、彼は余裕な様子で口笛を吹きながらを追いかける。まるで狩りを楽しんでいる狼のように、着かず離れずの間合いでじりじりと彼女を追い詰める。実際彼にとっては子兎も同然で少しでも足に力を入れれば簡単にその身体を捕えることが出来ただろう。
元々大学に入って以来大した運動をしてこなかったにしてみれば体力などあってないようなもので、全力疾走していれば数十秒もしないうちにへろへろとその足取りはふらつく。
疲れから何だか面白くもなんともないのにけらけらと笑えてきて、とうとう彼女は足元の石に躓いてべちょりと地面に倒れた。それに笑い声を上げる彼ら。
「はい、ターッチ!鬼〜」
「へばんの早すぎだろ!」
は鈍くさいのだ!」
ゲラゲラと笑うロゥロゥやからからと軽やかな笑い声を上げるミュロンたちのもとへと走り去っていくヤクート。今度は私が鬼なのか、とは疲れ切った足を震わせながら立ち上がる。それにまた彼らは生まれたての小鹿のようだと声を上げて笑い、彼女は彼らを捕まえる為に走り出した。

廊下の窓から楽しそうな声が響いている。聞きなれた者たちの笑い声に気になって外を見てみれば、中庭で子供のように鬼ごっこをして遊んでいるファナリス兵団が目に入った。
どうやら今はが鬼として彼らを追いかけているようだ。普通の人間、否それ以下の彼女がファナリスの脚力に敵うわけがないのだが、彼女は真剣に、だが楽しそうに彼らを追いかけている。
「よし、来い!あと少しだ!」
『ちくしょー!待てー!!』
足の遅い彼女の手がギリギリ届くか届かないかの所でロゥロゥが彼女から逃げている。それに彼女は闘志を燃やして追いかけているけれど、笑いながら逃げるロゥロゥを捕まえることはできない。
それでも、ここ数日で一番の笑みを見せている少女に、ムーはそんな顔も出来るのかと少しばかり安心した。彼女をこの王宮に招いてからの数日間、彼女は外の世界を恐れて必要最低限にしか部屋を出なかった。特に対策を練ったわけではないが、妹を彼女の所に向かわせたのは正しかったようだ。
シェヘラザードに彼女を任されたからというのもあるが、彼女が一部ではあるもののファナリス兵団から受け入れられたことで、少しばかり肩の荷が下りる。
「それにしても、か弱いな…」
ロゥロゥを追いかけることに疲れ果てたのかその場にころんと倒れ込んだ彼女。そこにわらわらと集まってくるファナリスたち。赤い髪を持って図体の大きい彼らに囲まれて、ぜえはあと息を乱している彼女の存在は本当にちっぽけなものだった。身体の大きさならシェヘラザードより頭一つ分高いが、強力な魔法を使える彼女と比べてしまうと、その命の儚さを感じさせる。きっと、この世界の女たちの中でも特に弱い存在であろう彼女。少しでも力を入れれば彼女の命など簡単に消える。
きっと、それは彼らもよく分かっているだろう。だからああやって彼女に手を差し伸べるのだ。
「おーい、大丈夫か?」
はそこらへんの女の子よりも体力ないのね」
「簡単におっ死んじまいそうで怖いな!!」
息も絶え絶えな彼女の顔の前で手の平を振る者や、彼女の手を引っ張って起こしてやる者、そしてその存在の危うさを認識しながらも笑う者。皆、彼女に少なからず好感を抱いているようだった。
ふと、ムーの視線に気付いたのかミュロンたちが彼がる窓辺を見上げる。
「兄さん!」
「団長―!!」
わいわいと笑顔でこちらに手を振る彼らに、ムーは笑みを浮かべて同じように手を振った。


2015/05/29

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