ルビーに絡めとられる

 熱気が高まる闘技場に数年ぶりにムーは足を踏み入れる。踏み入れると言っても、彼が向かうのは観客席ではなく、コロシアムの中だ。レームの市民たちがムーの戦う姿を何度も求めることから、彼は久々に観客としてではなく出場者として参加する。
闘技場の土を足の裏に感じながら入っていくと、観客席からの声援が一際大きくなった。きっとあの方はいないだろうと、特別席をちらりと見やれば珍しくシェヘラザードの姿があった。これは何が何でも負けることは出来ないな、と緩んでいた意識を引き締めて闘技場に解き放たれる獣を待つ。
ただ殺すだけでは観客たちも喜ばないだろう。視覚に肥えた者たちはエンターテイメントをこの殺し合いに求めているのだから。
ガガガ……とムーとは正反対の入口が開く。そこからは全長4メートルはある巨大なネコ科の獣がのしのしと現れた。顎から飛び出た長くて鋭い牙は今まで食い殺してきた者たちの血肉で汚れている。地面を踏みしめる前足にも鋭い鉤爪が黒く光っていた。
普通の者であれば慄く姿だが、勿論ムーは獣を見ても特に恐れを抱かなかった。さてどうやって殺してくれようか、とグルルルルと目を血走らせて獰猛な唸り声を上げる獣にじり、とタイミングを窺う。
そこに突如、ポンッという軽やかな破裂音が響いた。その音と共にムーと獣の間に一人の少女が現れる。それにムーも観客たちも何が何だか分からないといった表情になる。しかし、そうなっているのは少女もだった。寧ろ少女の方がこの現状を理解しきれていないようだった。
ぽかん、と間抜け面を晒しきょろきょろと周囲を見渡して、最後に彼女の背後にいる巨大な獣に気が付いた。
『ひっ…!!!!』
少女の目が獣の目とかち合った。その瞬間、獣はムーではなく少女に狙いを定めたようだ。血と唾液が混ざった液体が滴る牙を剥き出しに咆哮する。少女はそれでもう駄目だったようだ。がたがたと震えて腰が抜けたのかぺたんとその場に蹲る。
「きゃああああ!!女の子が!!」
少女へと跳躍した獣に観客席の人々が叫び声を上げる。チッと舌打ちをして、ムーは獣に剣を振りかざした。今はエンターテイメントなどを気にしている場合ではない。罪のない少女の命を危険に曝させてまで観客を楽しませる必要はないのだ。
あと数センチで獣の鋭い爪が少女を切り裂く、その瞬間ムーの剣はその腕を切り落としその勢いのままその首を切り落とした。ゴトンッ、ボトッと重量ある音が響く。刹那湧き上がる歓声。
「流石ムー様!!最高のショーだったわ!!」
「そこの子も良い仕事したなぁ!!」
ワアアアアアと歓声が響く中で、どうやら観客たちはこの少女の突然の出現もこの戦いの一部だと勘違いしているようだった。何分、何故彼女が急に現れたのか分からない身としてはそうやって誤解してくれているなら好都合だと少女を振り返る。
「大丈――」
少女に安否を確認しようとしたのだが、彼女は先程の恐怖が強すぎたのか、気絶していた。とりあえずこのままにしておくことも出来ないと少女を抱えてムーは控室に引っ込むことにした。

 ムー。と少女にしてはやけに落ち着いた声で彼の名を呼んだ。控室に向かう途中の廊下でムーがこちらに向かってきている。少女を抱えているせいで彼女に礼を取ることができないことにもどかしさを感じている様子だったが、彼はシェヘラザードの名を呼んだ。
「その子を見せてちょうだい」
彼の腕の中にいる少女。普段は闘技場を好まない彼女がこの場所に引き寄せられたのは、きっとこの少女が現れるからだったのだろう。特別席から突然現れた彼女を見て、納得したのだ。あの少女は、もしかしたら“異世界人”なのではないかと、そんな思いがシェヘラザードに過った。
彼女の言葉に、彼は腰を屈めて腕に抱えた少女を見せる。そっと気を失っている少女を上から下まで見つめた。見た目は普通の人間と変わりない。艶やかな黒髪にふっくらとした頬。きっと目を開けば愛らしい部類の少女なのだろう。ただ、決定的に彼女は他の人間と何かが違った。その何かは口で表すことができない。だが、マギであるシェヘラザードにはその差異が分かる。そしてその差異は先程の彼女の推察を肯定した。
「ムー、この子は異世界人よ」
「えっ、あの異世界人ですか?」
目を丸くしたムーにそう、と頷く。この少女は、遥か昔からおとぎ話で伝えられてきた“異世界人”なのである。異世界人はマギとはまた違った不思議な存在。そして、あらゆる国は異世界人を求める。マギがいない国であれば尚更のこと。マギが国を守り導く一本の巨大な柱だとすれば、“異世界人”というのは国のお守り的な存在であった。
異世界人がいる国は不思議と良い方向へ進んで行き、悪影響が少なくなると言う。だからこそ、異世界人には価値があるのだ。
そんな存在が幸運にもこの国へとやって来た。その機会をシェヘラザードは逃す気は無かった。自分の子供のように愛した国を少しでも守りやすくなるのなら、この少女を手元に置いておかなくてはならない。
「ムー、この子を私の養子にします」
「――良いのですか?」
何処の馬の骨か分からぬ少女を、宮殿に入れて良いものか。そんな不安が彼から伝わってくる。それに良いのよと返す。ムーはまだ異世界人の価値が本当に分かっていないようだった。
「この子は保護しないといけないの。誰かに取られないように」
「そうですか」
簡単にどこかへ逃げられないように。その暮らしに不満を持ってこの国を出ていかないように。そうするためにはある程度の水準の生活と身分を与えなくてはならない。シェヘラザードの養子ということにすれば、彼女を見守る目も自然に増えるというもの。何か行動を起こせばすぐ彼女のもとにその情報が与えられる必要があるのだ。
全てを理解したわけではないだろうが、物分かりの良いムーはそれに頷いた。

ぱちりと目を覚ますとやけに天井が高い部屋の天蓋付ベッドに自分が寝かされていると気付いた。それを見て、ぽかんと呆ける。確か、自分は部屋で勉強していた筈なのだが…、とそこまで思い出してその後突然ローマのコロシアムのような場所で化け物に襲われそうになったことが記憶に甦る。
そ、そうだ。私はあの化け物に食べられそうになって、そのまま気を失ったのだ。漸くはそれに気付き、部屋の中を見渡す。品の良い調度品が並んだ広い空間にだけがいるようだった。
いったい、ここはどこなのかとベッドから下りてみると、自分の服装が白地のワンピースに変わっていた。
『えっどういうこと!?』
しかも何だか古代ギリシャの人達が着ていそうな感じのワンピースである。きょどきょどと誰もいない部屋で驚きの声を上げるけれど、当然それに返事をしてくれる人はいない。
とりあえず、誰かに訊こうかな…。自分の考えにうんと頷いて扉に向かう。少し高い位置にあるドアノブに手を伸ばした所で、がちゃとと外から扉が開いた。
「おっと、失礼。起きたんだな」
『わっ、??』
先ず目に入ったのは金色の鎧。驚きのあまりに数歩後退りすれば、漸くその人物の顔が目に入った。赤の髪の毛を持ち端正な顔をした男性だ。そして彼の背に隠れて見えていなかった金髪の美少女が姿を現す。
あ、あの人確かコロシアムにいた人だ。パニック状態だった先程の出来事の中で赤い髪の男が側に立っていたのを思い出して、ぺこりと小さく頭を下げる。たぶん、あの恐ろしい化け物から助けてくれたのは彼だから。
『あっ、あの、ここどこでしょうか?服まで変えていただいて…』
「やはり言葉が違うようね」
金髪少女の保護者らしき男に訊いてみれば、どうにも彼は首を傾げるばかり。尚且つ、穏やかな表情をした少女が口にした言葉によって、には衝撃が走った。
私の知らない言葉…。どうして、ここは日本ではないの?いや、そもそもここが外国であろうが先程私を襲おうとした化け物はこの世界にはいない筈だ。どんなに大きなネコ科の動物だって、あんなに巨大な身体をしていない。では、ここは。
徐々に青褪めていくの顔を2人は静かに見やった。パニックが収まるまで言葉を投げかけても意味がないと悟ったのだろう。
『あなた、名前は?』
『――です』
直接頭に響く少女の柔らかい声。少女にしてはやけに落ちついたその声は、が先程話していた日本語だ。俯いていた顔をぱっと上げれば、少女はこちらをじっと見ている。
、私はシェヘラザード。この国の最高司祭』
信じられないかもしれないけれど、今は魔法を使って貴方の言語を話しているの。そう話しだした彼女に、目が白黒になる。魔法?この国?最高司祭?先程のように頭の中がパニックになってきたが、それを鎮めるように彼女の静かな声が脳に響く。
がこの世界の中では異世界人という存在であるということ。これから行く宛のないをシェヘラザードの養子として養ってくれること。そして彼女は少女のような見た目ではあるがよりも遥かに年上の女性なのだということを、とても丁寧に説明してくれた。
どうやら、赤髪の男性が彼女の保護者である、というのはただの勘違いであったようだ。
『今日から私達は家族よ。何か困ったことがあったら言って』
『あ、ありがとうございます』
言葉が通じないのは大変だろうから勉強していくことや、なるべく一人で行動しないこと――赤毛の男性、ムーやその仲間たちに頼ること――、彼らやシェヘラザード以外の人間を簡単に信用しないこと、などを約束させて彼女たちは部屋を出ていった。
優しく丁寧に接してくれた彼らがいなくなって、ぽつんと一人残される。静寂が再び部屋を包み込んで、落ち着いてきたが故に、一気に心細さが溢れ出した。

ぱたん、と静かに扉を閉めて、前を歩くシェヘラザードに付いて行く。その途中に、耳の良いムーには扉を隔てた向こうでが泣いているのが分かった。可哀想に、と思った。あくまで他人事でしかないけれど、客観的に見ても彼女に降りかかった出来事はあまりにも理不尽だ。だが、シェヘラザードが彼女のためにここまでしてくれているのだから、彼女はきっと他の場所に現れたより幸運だっただろう。酷い国であれば、彼女のことを牢屋に監禁していたかもしれない。
の部屋から少し離れた所で立ち止まった彼女はムーを振り返る。
「ムー、あの子と仲良くしてあげてね」
「はい、シェヘラザード様がそう言うなら」
背の低い彼女と視線を合わせる為に膝を付く。そうすれば、彼女は「いいこ」とムーの頭を撫でるのであった。


2015/05/29

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