二人だけの秘密

 いつものように夕食の後片付けを終えた私は、自分の部屋に戻ろうと廊下を歩いていた。大量のお皿洗いにも慣れたもので、今日は普段より早めに終わったため何をしようかなと機嫌良く歩いていたところだ。
――ガタンッ、どんっ、バシャアン!
『なにごと!?』
急に大きな音が隣の部屋から聞こえて、私は大げさに肩を揺らした。その部屋に目を移してみると、そこはキッド船長の部屋ではないか。な、何かあったんだろうか。
ザアアア、とシャワーの音が響いている以外何の音も聞こえない。そういえば、彼は夏島で遊んだ時に泳げないと言っていた。もし、彼がお風呂場で溺れていたら。
そおう思い至った私はさあっと顔を青くして、彼の部屋をノックもせずに急いで入った。
「きっどせんちょー!」
部屋にはやはりいない。確実にお風呂場だ。私はだだだと駆けてお風呂場の扉をノックした。返事が無い。私はそのことに慌てた。普通ならここで彼は「何勝手に入って来てんだ」とか「俺の時間を邪魔すんな」とか言う筈なのに、それが無い。あああ、どうしよう。本当にバスタブで溺れてるのかも!!
「きっどせんちょー?わたし、はいる。ごめんなさい」
彼に怒られることに意を決してお風呂場に入った。すると、バスタブの中でうつ伏せになってぷかぷかと浮かんでいる彼が。
『ぎゃああああ!!キッド船長!!!』
しっかりして!!声をかけながら彼をバスタブから引きずり出そうとするが、如何せん私と彼の体格差は歴然で、しかも気を失って重みを増した彼の身体を運ぶなんて私には重労働だった。ちらちら視界に入りそうになる彼の裸はどうにか見ないように心がけて、必死に引きずり出した彼を床に寝かせてその上からバスタオルをかけた。
って、キラーか誰かを呼べばこんな苦労せずに早くキッド船長を助けられたのでは。そういう考えがふっと浮かんだがそれを消して私はぺちぺちと彼の頬を叩いた。人命救助ってどうやるんだっけ。マ、マウストゥーマウスで息を吹き込むんだっけ。でもまだ私ファーストキスしてない。初めてがキッド船長ってのはなあ…あ、いやキッド船長が嫌いってわけではなくて、ちゃんと恋した人にしたいなっていう…あれ?今何やろうとしてたんだっけ。
「ゲホッゴホッ」
「あ!きっどせんちょー!」
そんなことを私が悩んでいる間に彼は勝手に目を覚ました。良かったぁ…目を覚ましてくれて。このまま死んじゃったらどうしようかと思った。
「あー…、お前が助けてくれたのか…?」
「うん。おおきなおとした」
彼はこの状況を素早く判断して、自分が溺れかけていたことを理解したらしい。死ぬかと思った。そう呟いた彼に、私は本当にそうなってたら洒落にならないと心中呟く。ぐったりした様子でタオルを腰に巻いて立ち上がった彼はもうこれ以上お風呂に入る気になれないのか、服を着始めた。
「おい、
「なに?」
着替えが終るまでお風呂場から出ていようと外に待機していた私は、お風呂場から出てきた彼にずいずいと迫られた。かなり真剣な顔付きをしていて、私は思わず後ろに仰け反りそうになった。
「良いか?このことは、絶対にキラーたちには言うなよ」
「……??ないしょ?」
そうだ。頷いた彼に分かったと返す。石鹸で脚滑らせてバスタブで気絶なんて格好悪すぎだからな、そう続けた彼の言葉は少し難しくて聞き取れない。けれど恰好悪いというのは分かった。何が格好悪いのかは分からないけど。
「二人だけの秘密だからな」
「うん、ひみつ。わかった」
こくこくと私が頷いたことで彼は満足したのか、どかっと一人掛けのソファに座った。そしてちょいちょいと手で私を呼びつける。
「力が出ねえ。髪乾かしてくれ」
「しかたねぇ奴だ」
――ブフッ。軽く吹き出した彼を見て、何か間違ったことを言っただろうかと不安になる。よくキッド船長が言っていることを言ってみたんだけど。仕方ないみたいな意味じゃなかったっけ。
「お前、それどこで覚えた?」
「きっどせんちょーとみんな」
「俺らかよ」
彼は未だ小刻みに肩を揺らしている。私は彼の質問に答えながらドライヤーで彼の髪の毛を乾かし始めた。水分を吸って垂れた彼の赤髪を丁寧に手櫛で整えていく。今更だけど、化粧をしていない彼の顔を見るのは初めてでまじまじと見えしまった。彼は化粧を落とすと意外に端正な顔立ちをしている。化粧なんてしないでそのままでいれば良いのになあ。勿体無い。そんな事を考えながら彼の髪の毛を梳く。
「それはお前には似合わねェ。”仕方ないなぁ”って言え」
「したかないなぁ?」
どうやら口調が変だったようだ。なるほど。うんうん頷いて彼の言葉を復唱してみると、少し間違えたようで逆だ逆と指摘された。ふんふん、”しかたないなぁ”か。今度から使ってみようっと。
ワックスを付けていなくて重力に従って落ちている彼の髪を乾かしながら、私はその言葉を使える時を楽しみにした。


 キッドとが喧嘩をした。俺はその場にいなかったからどういう経緯で彼らが喧嘩をしたのかはしらないが、どうやら加害者はキッドで被害者はらしい。その事実はあっという間に船の間に広まって、このことを知らない者はいないくらいだった。彼を咎めるような船の雰囲気に、居心地が悪くなってしまった彼は今日の朝早くから島に上陸して今は船の中にいない。
食堂の椅子に腰かけて怒り心頭な彼女を扉の外から見つめる。
「………」
彼女はとても怒っているようだった。彼女は言葉で表現できないぶん、表情で怒っていますということを表現することに決めたらしく、頬に空気を溜めて眉をぎゅっと寄せている。一歩間違えればフグの真似でもしているのか、それとも何をそんなに苦しそうな顔をしているのかと勘違いされそうな表情だ。しかし俺はそれに対しては言及しないことにして、頬杖をついている彼女の前に座った。
「どうしたんだ?
「……きらー…。わたし、おこってる!」
彼女から返ってきた言葉にそうだろうなと頷く。彼女が怒っているのは見た目で十分分かっていたから。何をそんなにぷんすかしているのかと訊ねれば、彼女は口をへの字に曲げてその問に答えてくれた。
「きのう。わたしがおふろはいってるとき、きっどせんちょー、はいってきた」
「ああ……あの時の声はやっぱりお前だったのか」
夕べ、『ひぎゃああああ!!!』という悲鳴が船内に轟いたのだ。その声は俺たちが良く知っている少女のもので、それが共用風呂場から響いているのも分かった。何かあったのかと俺は慌てて彼女の元に向かったのだが、風呂場の扉の外に立っているキッドがしれっとした顔で「もう大丈夫だ。解決した」とか言うものだから俺は安易にその言葉を信じてそこを後にしたのだ。きっと内心は冷や汗だらだらだったのだろう。
彼女が言うには、どうやら彼は彼女が居ないと思って間違って入ってきたらしく、しかしそのことについて謝らないことに彼女は怒っているらしかった。
まったく、年頃の女の子の風呂を故意でないとはいえ覗いてしまったのだから謝罪の一つや二つくらいすれば良いものを。俺はこの場にはいないデリカシーの無い船長を思って溜息を吐いた。
「わたし、きっどせんちょーゆるさない!ごはんなし、する!」
「それが良い」
彼女の決意を聞いて俺は少し笑った。なんともまあ可愛らしい仕返しだ。しかし海の上でコックに逆らうということは恐ろしいことだ。心根の優しい彼女のことだからきっと彼の分だけ少なくしたりするだけだろうが、これが本当に陸の無い海の上だとかなり危険だ。彼女を怒らせるのは得策ではないだろう。
 彼女は宣言通りに彼の料理の量だけを減らして食事に出していた。それを見た彼は何だこれと不満気な顔を彼女に向けたが、彼女は知りませんというように顔をぷいと横に背けて食事を続けていた。
しかし事情を知った俺は明らかに今回のことは彼に非があると思っていたから、彼女に飛ばされる強すぎる眼を代わりに受けてやることにした。


ったく、あいつ。俺が間違って風呂場覗いたぐらいであんなに騒ぎやがって。別に裸の一つや二つくらい見たって何も減らねえよ。それに俺はあいつの裸を見たわけじゃねえし。それなのにあんな料理の量を減らすとかガキみてえな仕返ししやがって。
だけどまあ、謝らなかったのは俺だしな。仕方ねえ、俺が折れるか。
「おい、
「なに?」
彼女の部屋に行きがちゃりと扉を開ける。彼女は俺が入ってきた途端、頬をフグみたいに膨らまして眉をぎゅっと寄せた。何だ威嚇か?ちっともこわくもない彼女の顔を見て、俺は勝手に彼女のベッドに腰掛けた。彼女は備え付けの椅子に座っている。
「あー……、昨日は風呂覗いちまって悪かったな」
謝るということを今までに数えるほどしかやってこなかった俺は、何となくこそばゆくて頭をぽりぽりと掻いた。彼女は数秒かけてその言葉を理解したらしい、うんと頷く、
「しかたないなぁ、ゆるす」
しかもこの前俺が教えた言葉を律儀に使って。どうやらもう彼女は怒ってないようだ。先程の変な顔をやめていつもの顔に戻っている。そんな彼女を見計らって、俺はポケットの中からがざごそとあるものを取り出してそれを彼女に渡した。
「やるよ。安もんだけどな」
「?ありがとう」
彼女に渡した包みを彼女が丁寧に開けて、中を確認する。彼女の手に平に乗ったのは、ルビーを模したイミテーションのネックレスだ。
「わあー!きれい!かわいいっ」
「そうかよ」
それでも彼女はそれを見た途端きゃいきゃいと騒ぎ出した。本物でもないのに、こんなに喜ぶとは。俺に近づいてくる女たちだったら何だこんな安物と捨てているだろう品をこんな風に喜ぶこの少女の純粋さ。ガキだなぁと思いながらも、それは好ましいものだった。
「たいせつする!」
「ああ、無くすなよ」
きらきらと光る赤い硝子を同じくきらきらした目で見つめる彼女。どうやら上手く仲直りはできたようだった。女はきらきらした物が好きだからこういう物を渡しておけば良いだろうと思っていたが、予想以上に大きな効果があったらしい。
思えば、これは彼女への初めてのプレゼントだった。


2013/05/26

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