心地よい水槽

 がこの船のコックとなってから早二週間。今ではすっかりこの船の連中たちも彼女の存在になれたようで、日に日に料理の腕を上げていく彼女の食事の時間を待ち遠しくしていた。男の心を掴むのなら、まずは胃袋からとはよく言ったもので、本当に彼女は彼らの胃袋をがっちりと掴んで離さなかった。
それに加え、彼女のあの容貌。港にいるような夜の商売の女たちとは明らかに違う、小さくて可憐な少女は愛くるしさを武器に男達に保護欲を芽生えさせたのだ。心底恐ろしいと思うのは、それを意図せずにやっているのだということである。人を疑うということを知らない純真な子供のように、初めて会った時俺の作ったご飯を嬉しそうに食べていた彼女。自分の身も顧みず彼女よりも遥かに頑丈な俺のことを身を挺して守ろうと突進してきた彼女。その頃から俺もこの少女には危機管理能力が低いようだと思って多少心配していたのだが、今では他の奴らに負け劣らず心配性になってしまったようだ。また、言葉をろくに話せない彼女はまるで幼子のようで、こぞって男たちは言葉を覚えさせようと彼女に構いきりだった。彼らのデレデレとだらしなく緩む表情筋を見ていると情けない面だと思うが、きっと自分も彼女と接するときは普段より緩んでいるのだろう。
もし彼女が嫌がっているのだったら俺が止めようと思ったのだが、強面の奴らに囲まれてもそれが善意からだと感じ取った彼女はそれを嫌がることなく、むしろ楽しそうにしていたから俺はただ見守っている。流石に変な言葉を覚えさせようとしたら全力で止めるが。
ただ、心配なのはキッドだ。彼は未だ彼女にどうやって接したら良いのか計りかねているようで――それは初対面であんなに拒絶を示したから当然といえば当然だろうが――彼女もそれを少なからず気にしているようだった。


 コックという職を押し付けられてしまった彼女は日中のほとんどを厨房で過ごす。あれだけの船員の数だと下準備にもかなり時間を要してしまうようだった。この人数分の料理を毎食作るのはかなり苦労しているのだろう。けれど、小さな彼女がせっせと俺たちの為に料理を作ってくれるというのは何だか今までとは違って嬉しい気持ちがある。それは彼女が女だからかもしれない。男たちしかいないこの船で彼女の存在はまさに掃き溜めに鶴といった感じで、俺たちは彼女のことを妹のように可愛がっていた。
「きらー」
「どうした?」
とたとたとた。そんな軽やかな足音をさせて俺の所に来た彼女。その手にはコーヒーが二つあった。
「きらーとせんちょーに」
たどたどしい言葉でそれを差し出す彼女は、きっと自分が彼の部屋に訪れても嫌な顔をされるかもしれないと思ったのだろう。俺はそれに頷いて二つのコップを受け取った。彼女の淹れたコーヒーは丁度良い濃さで、キッドもこれなら文句は言えないだろうと仮面の下でほくそ笑む。早く何か彼らの間にきっかけを与えてやらないとずっとこのままの関係を続けていくに違いない。そう思った俺は彼女にお礼を言ってからキッドの部屋に向かった。


「キッド、俺だ」
「何だ?」
コンコンと二回ノックをしてから彼の部屋に入る。そこは流石船長の部屋というだけあって、他の部屋に比べると豪華だ。彼女が淹れてくれたコーヒーを溢さないように気を付けながら彼に手渡す。丁度飲みたかったところなんだと言いそれに口を付けた彼を見計らって、このコーヒーはが淹れたのだと伝える。
気が利くななどと直前に呟いていた彼はごほごほと己の言葉に噎せていた。全く、そんなに気になるなら素直になれば良いものを。
「あいつが淹れたのか?」
「そうだ」
まじまじとコップを見つめる彼に、そろそろ意地を張っていないでのことを認めたらどうだ?と言葉を投げかけた。この男は未だ子供っぽい所があり、それを持て余すことが度々あるのを俺は知っている。そうすれば彼は黙り込んでそのコーヒーに口を付けた。
――沈黙が暫く続く。先にその沈黙を破ったのは俺だった。
「あいつは与えられた仕事をきちんとこなしている。料理の腕だって上がってきているのがお前にだって分かるだろう?」
「ああ」
以外にも素直に頷いた彼にあともう一息だと心中呟く。彼はその一歩を踏み出すのがとてつもなく遅い。意地を張ってしまった分、それを覆すにはそれなりのきっかけと理由が必要なのだ。しっかりとこのプライドの高い船長のことを理解している俺は焦らず言葉を選んだ。
キッドがに近づくに相応しい理由。――はっ、と気付く。
「そういえば、は著しくこの世界の常識を知らないな」
「ああ、偉大なる航路を知らない奴なんて初めて見たな」
以前彼女にこの世界の常識をどれくらい知っているのかと思って色々と質問してみたことがあった。しかし彼女は海という存在は知っていても有名な海の名前なども分からず、彼女の常識は幼児並みだということが判明した。しかし幼児が到底知ることがないことも知っていて、それの境界線は酷く曖昧だった。全くの世間知らずというわけでもないらしい。
「船長としてあいつに常識を教えてやったらどうだ?」
船員の面倒を見るのも船長の仕事の一つ。言外にそういう意味を込めて彼に視線を向けると、彼は口をへの字に曲げて思案していた。全く、そんな考えることでもないと思うのだが、キッドにはそういった姿勢が必要なのだろう。
「仕方ねェな……」
「そうか、良かった」
漸く頷いた彼に仮面の下で微笑む。これで彼女もキッドがどうたらとかいうことで悩むことは無くなるだろう。自分の乗っている船の船長に良く扱ってもらえないというのは結構心に来るのだ。彼はまだそういった事に気付けていないようだから仕方がないかもしれないが。
それじゃあ俺はに伝えてこよう。そう言い残して俺は彼の部屋から出た。


、来い」
「きらー?」
私は手招きをする彼の後ろについて歩く。いったいどこに行くのかなと思いながら彼の姿を追っていると、急に足を止めた彼の背中に顔をぶつけてしまった。ごめんなさいと鼻を抑えながらもごもご言うと彼はふっと笑って目の前の扉を開いた。え、ちょっと待って。ここって船長の部屋じゃなかったっけ。
「キッド、連れて来たぞ」
「…ああ。突っ立ってないでこっちに来い」
状況理解が出来ない私の背をキラーさんが押す。え、と思って彼を振り返ると彼はそのまま来た道を引き返していった。ぱたんと扉が閉まる音が無情に響く。
――いったいどうしろと。
気まずい空気を感じながらも彼の前のソファに座る。私の部屋よりも遥かに豪華な彼の部屋は全く住み心地が違う気がした。
「今日から俺はお前に勉強を教える」
「せんちょーが、わたしに?」
頷いた彼に、いったい何の勉強をするのだろうと首を捻った。勉強をするのだと分かってしまえば先程の居た堪れなさなどどっかに飛んで行ってしまい、私はそれほど難しくないものを頼みますと誰にともなく願った。
「これは何だ?」
「…?わからない」
彼がある図鑑を開いて不思議な模様をした果実を見せた。ぐるぐるした模様のそれはあまり美味しそうには見えない。――これは“悪魔の実”だ。そういった彼の言葉を反芻する。悪魔ってあの悪魔?
きょとんとしてその果実を見ていると、彼は大きな紙に絵を描き始めた。言葉が分からない私の為の計らいだろう。
「このぐるぐるした模様が付いた実を食べると不思議な能力を手に入れられる。だが代わりにカナヅチになる」
絶対食うなよ。続けられた言葉と、紙に描かれた絵を見て私は頷いた。水の中で棒人間が溺れているのは何だかシュールだったけれど、もしそれが自分になったらと思うと恐ろしい。泳ぎは得意な方だけど、この実を食べたらどんなに泳ぎの得意な者でも溺れてしまうようだ。というか、絵でそこまで伝えることが出来るってすごいな。
とりあえず悪魔の実講座はそれで終わったらしく、彼はまた新しいものを見せた。
「偉大なる航路に入る前の海は四つある。東、西、南、北の海だ」
方角を現す記号を書いて説明してくれる彼。戦うことしか頭にない人かと思っていたけれど、意外にこういった配慮が出来るから教育者に向いているのかもしれない。
ふんふんと彼の言葉に頷く。方位の単語はいまいち覚えていないけれど、東西南北の海が四つあるのは分かった。そして今私たちがいる海がぐらんどらいんだということも。
「とりあえず今日はこんくらいだな」
「おわり?」
首を傾げると彼はああと頷いた。今まで上手く接することが出来なかったことが嘘のようだ。こんな風にキッド船長と話すことが出来るようになって私は本当に嬉しかった。やっぱり、自分の船の船長とは仲良くしたいではないか。
ふと、空になったコーヒーのコップが目に入る。
「せんちょー、」
「キッド」
コーヒーいる?と続けるつもりだった声が彼に遮られる。俺の名前はキッドだ。少し不貞腐れたような顔をしている彼にしってると返す。でも彼はそうじゃないと声を荒げた。な、なんで怒ってるの?今まで全くそんな気配なかったのに。
「――俺の 名前を 呼べ」
私が聞き取れるように一言一句区切って発音してくれる彼。それの意味を漸く理解した私は緩む頬を抑えられなかった。彼は、私が彼の名を呼ぶことを許してくれたのだ。
「きっどせんちょー」
「船長は付くのか。…まあ良い」
私はやっとこの人に認めてもらえたのだと思って、何度も彼の名前を呼んだ。にこにことしている私に、彼はうるせェと言ったけれど、その声が存外に優しくて私はまた嬉しくなった。


「きっどせんちょー、だいすき!」
「!!」


2013/03/25

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