4

あなただって惑ひ星

 青く光る水に落ちる。ぼこ、ごぼり。体から銀の泡の柱が何本も伸びて、光が照らす方へと上がっていく。衝撃に未を縮め込ませることもできずに、ただ身体を刺す水に委ねる。凍えるように冷たかった。寒い。死んでしまう。
――誰か。なんて助けを求める意識はこの氷のように冷たい水によって、暗く沈んでいく。ただ寒い、痛い。
痛い。寒い……。ごぼり、と泡が浮かぶ音がする。もう、何も見えない。


 朝、降谷が呼ぶ声で私は目を覚ました。
「――
「――……、あっ」
何度か肩を揺すられて漸く目を覚まして悟る。今、何時?だが、目を開いたというのに身体が少し怠くて起き上がることができない。そのまま彼を見上げれば、苦笑した彼が見下ろしてくる。
「寝坊なんて珍しいね。ご飯作ろうかと思ったけど、ごめん。東都線が遅延してて、もう出ないとダメなんだ」
「ご、ごめんなさい…いってらっしゃい」
早口で述べた彼の言葉を3割ほどしか理解できていなかった。普段だったらすっきりと目覚める寝起きの良い自分にしては珍しい。彼がもう家を出るということだけは分かったので、急いで身体を起こして謝罪とともに挨拶をする。
彼はそれに、行ってくる、と返して急いで玄関に向かって出ていった。きっと朝ご飯を食べる時間も無くなってしまったのだろう。ぐったりとした身体は彼がいなくなったことで、またベッドの上に倒れこむ。何か夢を見ていたような気がしたが、何も覚えていなかった。
風邪をひいたのかもしれない。昨日の頭痛の残滓が蔓延っている頭と、どことなく怠い身体。何度か瞬きを繰り返して天井を見つめる。
学校を休むようなことでもないだろう。そう結論付けた私はのそりとベッドから起き上がって着替える。いつもより時間がかかったが、そのまま顔を洗いに洗面所へと向かい、時計の針を見て驚く。
――もう7時50分?
歩いて学校に行ける距離ではあるが、今日の体調不良も鑑みて早めに出た方が良いのは明らかだ。ご飯は食べたいけど時間がない。ううん、と迷った挙句、昨日の残りのご飯でおにぎりを握って持っていくことにした。

 早めに家を出たことで早めに学校へと到着した私は、カバンから取り出した真っ白なおにぎりを頬張る。もそもそ、と誰もいない教室でおにぎりを食べる私はきっと不思議な画になっていただろう。今のところ、体育でなければ受けられそうな身体にほっとする。
熱があるかないか、なんて確認してしまったらきっと弱気になって休みたくなるから確認しなかったが、かと言って体育を見学するのも嫌だったから。
具も何も入っていないおにぎりを食べ終えた後は、今日の授業の予習をしていく。今日の英語は確か関係代名詞だった筈、と教科書を開いて確認していく。シャーペンを握る手が僅かに熱いような気がしたけれど、気にしたら負けだと思ってそのまま教科書を眺めていった。
 おはよう、という声が教室に響くようになってきた。クラスメイトが来るたびに挨拶していたけれど、まだ西川は来ていない。きょろきょろ、と周囲を見渡せば、皆思い思いのことをやっていた。
中には朝からゲーム機で遊んでいる男子たちもいて、何のゲームのだろうかと少しだけ興味が涌いた。
「あ、西川さん、おはよう」
「おはよう!ちゃん」
隣の席にぼすん、と鞄を置いた西川には微笑した。西川さん、じゃなくて成海って呼んでと同じように笑う彼女にうんと返す。誰かの名前を呼ぶというのは気恥ずかしいけれど、どことなく特別な感じになるのだから不思議だ。
「成海ちゃん、ね」
「そう!やっと堅苦しくなくなったね」
えへへ、と嬉しそうに笑う彼女には悪いが、身体が重くて上手に笑えたか分からない。そうこうしているうちにやって来た担任。朝のホームルームが始まって、「起立・礼」と透き通った声で挨拶した。
 昼休みに入って、買っておいた昼食を食べた後、3時間目の授業が始まった。私はどの教科も一定に出来るが、少し難しく感じる美術で。知識を覚えるなら別に問題はない。だが、自分でデザインを考えたり絵を描くということは苦手だった。どうしてもへんてこなものになってしまうから。
「……っ、…ぅ」
ただでさえ苦手意識がある美術なのに、この時限になると朝感じていた頭痛や気怠さも一段と強くなってきて頭を押さえる。こんなに痛くなるなんて。頭痛薬、というものは家にある筈だろうがどこに置いてあるのかを降谷から聞いていなかった為、持ってくることができなかった。それを今更後悔しても後の祭りだが、「もしも」を考えてしまうのは仕方がない。
隣で黙々と課題の絵を描いていた成海に声をかけられた。
ちゃん、どうしたの?」
「頭が痛くて…」
もう笑顔を返すような気力もなくて、横をちらりと見やれば、彼女はあっと丸い目を更に丸くした。
「顔すごい赤くなってる…!」
「え…」
彼女の声に反応するよりも前に、彼女が「先生!さんが具合悪そうなので保健室に連れていきます」と手を挙げる。その声で、一斉にこちらへと向いたクラスメイトたちの瞳。ざわつき始めた教室に、女性の先生が目の前にまでやって来て私の様子を眺めた。
「確かに熱がありそうね。西川さん、頼むわ」
「はい」
教科書も筆記用具もそのままに立ち上がれば、成海が私の腕を取って後ろの扉からゆっくりと出ていく。私の歩くペースに合わせて歩んでくれる彼女に「ありがとう」と呟いた。彼女は絵を描くことが得意だから、美術が一番楽しい授業だと言っていたのに。私のせいで途中受けられなくなってしまって申し訳ない。
頭痛と身体の重さからよたよたと歩く私に彼女は微笑む。
「良いの良いの。いつから具合悪かったの…?」
「…昨日の夜あたりかな」
保健室へ行く為に廊下から階段を下りていく。私を気遣って一段一段慎重に進んでくれる彼女には感謝してもしきれない。彼女の心配そうな顔に、自然と睫毛を伏せてしまう。
何で休まなかったの、と少しだけ責める成海は苦笑した。きっと私が勉強したさに学校へ来たということを理解しているからだろう。迷惑かけてごめんね、ともごもご伝えれば、別にこんなの迷惑にもならないし、と彼女は言う。
俯いていた私には彼女がどんな顔をしているのか分からなかったけれど、きっと先ほどと同じように笑っているのだろうと思った。
 到着した保健室で体温を測れば、38.5度も熱があった。よく我慢したわねと保健室の先生から言われてこくりと頷く。
「今日はもう帰りましょう。保護者の方に連絡して迎えに来てもらうように伝えておくから、あなたはそのベッドで休んでなさい」
「えっ、呼ぶんですか…」
「ええ、そういう決まりなのよ。それにそんな熱で一人で帰させるのもね…」
髪を後ろで一つに縛った彼女から当たり前のように伝えられた言葉に、目を見開く。
――どうしよう。零さんは今仕事中なのに、私が熱で倒れたなんて連絡がいったら迷惑をかけちゃう…。
家を出る寸前の彼の表情を思い出して、胸が重たくなる。昨日からどことなく、言葉数が増えた彼だがそれでもまだ私に対して思うことはあるだろう。それに、今日の朝は朝食を作ることも出来なかったのに、これ以上迷惑をかけるのも後ろめたい。
だが、ほらと成海からも催促されてベッドに横たわる。荷物は私が用意して持ってくるから、と保健室を出て行ってしまった彼女。
――申し訳ない……。
自分が体調不良を考えずに学校に来たことで周囲の人間に余計な仕事を増やしてしまった。しゅん、と気持ちが落ち込んで涙が出そうになる。それもこれもきっと熱のせいだ。
「きっと慣れない環境に疲れが出たのね」
そう言って氷枕を頭の下に敷いてくれた先生。カーテンを引く際に、安心させるような笑みを向けられた。これで周囲の状況は音だけで判断するしかなくなってしまった。
「――江古田高校の保健室の渡辺と申します。はい、お仕事中すみません」
数回鳴った電話の無機質な音の後に続く彼女の声。電話相手は、確認しなくても降谷だろう。彼女の声を聞きながらはぁと溜息を吐いて、熱い瞳を冷ますように瞼を閉じる。もちろん瞼は冷たくないから、瞳は熱いままで。
「はい、どうやら昨夜から頭痛があったようで…、はい、一人で帰らせることも危ないので迎えに来てほしいのですが…」
彼女の声を聞くうちに意識が朦朧としてきて、数十秒後には意識を手放してふわふわとした夢の中に落ちていった。

 喉が渇いた。そう思って意識が浮上する。うっすらと開けた瞼。ぼんやりした視界をクリアにする為に何度か瞬きを繰り返していると、カーテンを静かに開けて入って来たスーツ姿の男に、「あ…」と小さな声が上がる。
「仕事中に呼び出されて吃驚した」
「ご、ごめんなさい…」
「違う、怒ってない。――いや、怒ってるか…」
表情硬く見下ろしてくる降谷に、私は申し訳なさから布団の中に隠れたくなった。迷惑をかけた。そう思っていたけれど、具合はどうかと聞かれて、保健室の先生が伝えたことと同じことを言葉にする。あとは、喉が渇いた。そう付け加えれば、彼はスポーツドリンクを取り出して渡してくれた。
「とりあえず、車に乗ろう。話はそれからだ」
「はい」
熱で重い身体を何とか起こして立ち上がる。どうやら成海が既に荷物を用意しておいてくれたらしく、ベッドの脇に鞄が置いてあった。熱が下がったらお礼を言わないと。手に持とうとしたそれは、私が持ち手を掴むより早く、降谷が掴んだ。
怯んだ手に、降谷が苦笑する。熱があるんだから俺が持つ、と。保健室の先生へ世話になったことに頭を下げれば、彼女はちゃんと病院へ行くのよ、と微笑んで。ガラリ、と扉を閉めて廊下を歩く。私の体調を慮ってゆっくり歩いてくれる降谷の半歩後ろを頭をフラフラさせながら歩く。
――廊下は静かだった。ちらりと見上げた降谷の横顔も、差し込んだ午後の光に当てられて静謐な輝きを放っている。
今は五時間目の授業をしているところだろう。教室で授業を受けている成海を思い浮かべて、そっと目を伏せる。帰る前に一言「ありがとう」と言いたかったなぁ。
 無言のまま駐車場へと着いて、借りてきた車に乗る。助手席でもたもたとシートベルトを着けていれば、彼がぼそりと呟く。だが、あまりにも小さかったそれは、私には理解できない。
「何て言っ――?」
「“何でもっと早くに言わなかったんだ?”だよ」
既に車にキーを差し込んでエンジンをかけている彼。微かな振動で私の身体を揺するそれを感じながら、私はごめんなさいと目を伏せる。彼が話そうと言っていたのはこのことだったのか、と。確かに迷惑をかけてしまったし、何より彼が大事にしている――ように私には見えた――仕事の途中で帰らせてしまったことへの罪悪感が募る。
「謝るな…。俺が言いたいのは、どうしてもっと頼らないんだってこと」
「…え?」
少し怒った様子の彼がどうして分からないんだとばかりに頭を掻く。その言葉に目を見開いた。だって、既に自分は降谷の家に住まわせてもらい、衣食住だけではなく勉学できる環境も提供されている。自分の中ではこの状態で頼り切っている状態だったのに、これ以上何を望めようか。
「だから、頭が痛いなら病院に連れていくし、辛いことがあったなら話だって聞く」
一緒に暮らしてるんだから、と続けられたそれに、「あ…」と小さく声が漏れる。彼はもしかして、心配してくれていたのだろうか。そっと、今までろくに見ることが出来なかった彼の瞳を恐る恐る覗き込む。それは日本人離れした、海のような、青空の色が反射した雲のような色をしていて。その中には、微かに彼の感情が滲んでいるような気がした。
それがどんな感情なのか、私には分からない。だけど、彼の言うことは分かる。
「遠慮する必要はない。俺たちはお互いに知らなきゃいけないことが沢山あるんだから」
「はい・・・」
彼のその言葉に、それもそうだと妙に納得する自分がいた。降谷は私より大人なだけあって、この状況をきちんと理解していたのだ。その上で彼が言うことはきっと間違っていない。
――知っていかないと何も始まらない。
私が頷いたことをきっかけに、車は動き出した。初めて乗る車の中は新しい匂いがした。ゆっくりと通り過ぎている学校やパン屋さんの景色。それを熱のある瞳でぼんやりと眺めていた。
 彼が運転をしながら話す。俺たちの間の約束事を決めよう、と。
「その一、挨拶はしっかり言う。その二、ご飯は出来るだけ一緒に食べる」
体調が悪くなったら――頭痛がするだけでも、なんて彼が付け加える-―言う、とかどこかに出かける時には何時に帰ってくるのか、ご飯は必要なのかという旨を伝える、とか。何個か挙げられたその約束事に、降谷を横目でちらりと見やる。
それくらいだったら、かんた――
「簡単なことだろ?」
赤信号で緩やかにブレーキを踏んだ彼が、私と目を合わせて確認するように小さく笑みを浮かべる。私の考えを読んだかのような彼に、目を丸くする。吃驚したことは知られたくなくて、咄嗟にまた窓の外へと視線を戻すけれど、頭脳明晰そうな彼には見破られていたのかもしれない。
「はい」
「どうすれば良いのか、一緒に考えていこう」

 病院に行って薬を貰った家に着いてすぐに洗面所に向かって手荒いうがいをし、自室でパジャマへと着替える。もそりとベッドへと潜り込んだのと同時に扉がノックされた。降谷だ。
「明日は土曜日だから学校休みだし、俺も仕事ないからゆっくり休むんだよ」
熱を測るように少し冷たい彼の手のひらが、私の額に乗せられる。小さく微笑んで部屋の電気を消した彼がゆっくりと扉を閉めていく。彼のその背中を見やりながら、私は「ありがとう、ございます」と呟いた。掠れた声だったのに、彼には届いたのか、ふっと笑って今度こそ出ていった。




 2016/10/03


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