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ぼくらはいつもくるしくて

 朝6時。目覚ましが鳴るよりも先に自然と覚める意識。むくりと起き上がれば、一週間前から世話になっている部屋が目に入る。それなのにまだこの部屋が見慣れないのは何故だろう。ベッドと本棚だけが並ぶこの部屋は、酷く殺風景だからだろうか。
それでも文句は無かった。病院ではない所で住まわせてもらうだけで、天国と同じであった。


トントントン…。降谷はリズミカルな音で目を覚ました。それは、が毎朝彼より早く起きて朝食を作る時の包丁の音だ。暗闇の中で、コトコトと何かが煮られている音がする。きっと、味噌汁だろう。朝は和食派だから。
暫くぼんやりと天井を見ていたが、ぐっと身体を起こして寝巻の袖を捲る。そのままくわ、と欠伸をしながら洗面所へと向かい、冷たい水で顔を洗えばすっきりする頭。
鏡に映った彼の褐色の顔は未だにどことなく不機嫌だ。それは、きっと降谷にしか分からない程度の差だろう。きっと、彼女は気付かない。彼の不機嫌の原因はもちろん、言うまでもなくだったけれど。
 がアイロンをかけたパリッとしたシャツに腕を通してスーツに着替える。ネクタイを結ぶか結ばないかで迷ったが、まだ朝食を食べていないのだ、首元はゆるい方が楽だろう。そう判断して彼はネクタイをせずにリビングへと向かった。
「おはよう」
「…おはようございます」
扉を開いた先には、突然共に暮らすことになったの姿。彼女は一瞬だけ彼の目を見てぱっと逸らす。それに、わずかに心の中に暗いものが漂う。これだ。この仕草が怯えや緊張であることを彼は知っていた。もう一週間も経つのに、未だに自分に慣れない様子の彼女に辟易とする。
――俺だって、一緒に暮らしたいわけじゃない…。
はぁ、と溜息を吐きたくなったがそれを胃に押しとどめて席に着く。既に朝餉は用意されていたので、「いただきます」と声をかけて食べ始めた。ずず…、とみそ汁を口の中に入れれば、少し遅れて席に着いた彼女もまた小さく「いただきます」と言って食事を始めた。いつも通りの、静かな朝食だった。

 には記憶がない。そして降谷は記憶を失くす前の彼女のことを、紙の上の微かな情報でしか知らなかった。ちらり、と彼女に気付かれないように視線をやる。女子高生らしく、ふっくらした頬に長い睫毛。よく言えば、どこにでもいそうな可愛い部類の女の子だ。丸い瞳ではないおかげで可愛い、というよりは綺麗、な部類に入るのかもしれないが。
一週間共に暮らして分かったことは、彼女はなかなか心を開きにくい人間だということ。記憶を失っているせいかもしれない。それに若干の苛立ちを感じることもある。だが、几帳面で律儀、そして真面目な様子は多少印象が良かった。毎朝夜出てくる食事だって、高校生にしてはそれなりに美味しい。
今までだったら、料理なんて必要最低限しかしなくて、同僚に「料理しろよ」と怒られていたほどだが、最近では彼女のおかげで健康的な生活を送っていると自分でも思う。だが、そんなことは問題ではなかった。
ごくり、と咀嚼したものを飲み込んで彼は彼女のことを見やる。
「今日は仕事が遅くなるかもしれないから、ご飯はいらないよ」
「…分かりました」
もそもそ、とゆっくりご飯を咀嚼している彼女に端的に言えば、ゆるりと瞬きした彼女は小さく頷く。もともと彼女はあまり話す方ではないのか、こうした時はいつも一言発するのみだ。降谷はそれに表情を変えずに再び皿の上へと視線を戻す。ゆらり、と揺れた味噌汁に、自分の影が映った。
――全く、厄介なものを押し付けて…。
「ごちそうさま」
「……」
食べ終わって席を立つ際に、こくりと首を振る彼女。それを見下ろして、キッチンに使い終わった食器を持っていく。これからどうやって打ち解けていけば良いんだ。キッチンの窓から見えた空はどんよりと曇っていた。


 ネクタイを締めて皺一つないジャケットを羽織った降谷の姿が職場のトイレの鏡に映る。その顔にはやはり不服な気持ちが表れている。今から上司に会いに行くのかと思うと酷く億劫だった。それは、ひとえに話す内容が彼女のことだからだ。
コツコツ、と足早に廊下を進んで部長がいつもいる部屋へと歩く降谷。コンコン、とノックをしてその中に入れば彼は待ち構えていたかのように降谷を見た。
「おはようございます」
「ああ、どうだ。例の少女は」
鋭い目つきで訪ねた彼が言う少女とは、のことであった。それに、まだ記憶を取り戻していませんと端的に答える。彼女の記憶を取り戻すことは、今の降谷たちにとってはとても重要なことだ。しかし、なぜその役が自分に回されたのかという苛立ちから、彼は彼女とはまともに関わっていない。否、ただの情報収集であれば彼は喜んで引き受けただろうが、彼女を自宅に住まわせるということに面倒な思いを抱えているのだ。
そもそも、普段の仕事をしつつ彼女に関わるということは時間的に難しい。
「言っただろう、まずは自分に愛情を抱かせろと。良いか、これは黒の組織へ潜入する足掛かりだ。絶対に成功させろ」
「はい」
上司の言葉に、頷く。彼は頭では分かっている。彼女の記憶を取り戻し、その情報を自分に与えるように仕向ければ今まで掴めそうで掴めなかった黒の組織への足掛かりを手に入れることが出来るのだ。それは今後の日本の安全へとつながる。否、日本だけではなく世界中も。
だが、なぜあの少女と共に暮らしていかなければならないのか、なんて彼女の存在を認めることができないだけだった。共に暮らさなくても、情報を搾り取れる方法ならいくらでもあるだろうに。


 キーンコーンカーンコーン、と鐘がなって授業の終了を知らせてくる。
ちゃん、一緒に帰ろう」
「うん」
声をかけてきてくれたのは、隣の席の西川という女の子。にこりと笑って鞄を肩にかけた彼女は、今日も授業退屈だったーと伸びをする。校門に向かいながら、それにきょとんとして首を傾げた。授業はつまらないと彼女は言うが、なぜつまらないのだろう。私はけっこう楽しかったけど…。
「何で首傾げてるの?もしかして楽しい?」
「うん、楽しい、よ?」
自分の素直な思いを彼女に伝えると、ええっと驚かれた。目を丸くしている彼女は「変なの〜」と呟く。彼女の中ではどうやら勉強はつまらないものらしい。特にそんな考えなどなかった私はきょとんとして彼女を見る。
――勉強が楽しいって変なのかな…?
自分が知らないことをどんどん知っていくことが出来るのは素晴らしいことだと思うのだが。そう考えた所で、ズキンと頭が痛みを訴えた。だが、それほど痛くないそれに、表情を変えなかった。隣で笑っている彼女を心配させたくなかったから。
「じゃあね〜また明日」
「うん、また明日」
分かれ道までやって来て右の道へと曲がった西川に手を振る。バイバイ!と元気よく手を振っていった彼女。私はそんな彼女を見送ってから頭に手をやった。きっと、少し疲れただけだろうと。

 家に帰ってから安室の帰りを待つまでに、夕食を作る。やはり頭痛は時々あるが、だからと言って病院に行く程でもない。台所でリズムよく野菜を切っていく。今日の夕食も和食で良いだろう。そう思って、冷蔵庫の中から取り出した魚をグリルに入れて火を付けた。
「ただいま」
「…!おかえりなさい」
時計の短針が7を指したころ、玄関から降谷の声が聞こえた。遅くなるかもと言っていたのに、普段よりも早い帰りにはっとして台所から顔を少し覗かせれば、そこにはネクタイを緩めた彼が立っている。どことなく、いつもよりも彼の雰囲気が柔らかいことに気が付いた。
「夕ご飯は和食?」
「はい」
「俺の分はある?朝、いらないって言ったけど」
「大丈夫です…」
入り口に佇んで、こちらの動向を見守る彼の瞳には、少しばかり暖かな光が差していた。それに、自然といつもよりも返事が早くなる。未だに背の高い男性は急に近づかれると恐ろしいが、彼なら何故か傍にいても恐ろしくないような気がした。きっと、暫く共に過ごしているからかもしれない。
こくりと頷いた私に満足した様子の彼は、ネクタイを緩めながら自分の部屋へと向かっていった。
それを見送って、料理を作るのを再開した頃に、ズキズキと痛みを訴える頭。まただ。そう思ったが、見て見ぬふりをする。ご飯をいっぱい食べてぐっすり眠れば治る筈。
 その夜のご飯は少しだけ賑やかになった。
「これ美味しい」
「ありがとうございます」
「何か見たいテレビは?」
「…動物の、ドキュメンタリー…です」
目の前でぱくぱくと食べていく降谷を見ながら、自分もご飯を食べていく。もぐもぐと咀嚼しながらテレビに目を向ければ、その中では愛らしい子熊が母親と共に森の中で暮らしている様子が映し出されていて。
――私の両親は、誰なんだろう…。
ふと、そんなことが気になった。だが、降谷から遠い親戚だと聞かされた後に両親は他界しているとも教えてもらったから、私にはもう家族というものはいないのだ。そう思ったら、胸がちくりと痛んで、そこからぶわりと寂寞感が体中に広がった。

いつもより言葉数多く、私のことを気にしてくれる降谷がいるのに、体中に広がったそれに心が冷えていって、上手く彼と目を合わせることが出来なかった。



 2016/07/14


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