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きみにできることはもう息をすることだけ、だ

 病院を出て、黒いタクシーの後部座席に乗り込む。運転手がちらりとミラーで私の顔を確認した。
流れていく景色。高いビルが立ち並ぶ隙間から見える夕焼けは、私が知らない街そのものだった。これからどうなるのか分からない。助手席に座る降谷の横顔をそっと見やる。会話も無い、噎せ返るような静謐。
この苦しい空間から逃げるように窓の外を見やる。
――私は何も知らない。何も、知らない。そっと、世界を遮断するように目を伏せた。


 降谷零に連れられてやって来たのは、綺麗で広々としたマンションの一室だった。見たところ彼はとても若いのに、こんな部屋に住める程稼いでいるのだろうか。そう思いながら、前を行く彼の背中をチラチラと眺める。だが、彼が振り向いたと同時にさっとそれを外して床に落とす。まだ、彼の目を見つめるのは怖い。
「今日からここがの家だよ。基本的にここにある物は使って良い」
「………」
一通り家の中を案内してくれた彼。それにこくりと頷く。ここがの部屋。そう言って開けられた扉の先には、ごく普通の部屋があった。ベッドと机、そして本棚が並ぶだけのどこか寂しくなる部屋。それはまだ物が入っていないからかもしれない。
案内しつつスーツのジャケットを脱いでハンガーにかける彼の顔には、初めて見た時の笑みは浮かんでいなかった。直感的に、彼は疲れているのではなく、自分をここに置くのを迷惑がっているのだと思った。何故かは分からない。だが、私は今彼の領域を侵す異分子でしかないのは確かだった。
「明日からはご飯は作れる?たぶん俺はの食事を作る暇はないだろうから」
「…はい」
一定の距離を保つ私を見下ろした彼の言葉に再度頷く。ご飯、は自分でどうにか作れる筈。彼は忙しい社会人なのだから、世話になる分そういう所はサポートしていかないと。そんな私を見た彼は「ああ」と何かを思い出したように声を上げた。ちらり、と向けられた彼の流し目は驚く程に綺麗で。
「江古田高校に手続しておいたから、一週間後から通って。は高校生だろう?」
ソファに腰を下ろした彼に下から見上げられて言葉に詰まった。高校生だろう、と訊かれても今の自分にそんな記憶はない。だが、鏡で顔を確認した所、たぶんそうなのだろうと思う。まだ、中学生を卒業してすぐのような顔立ちの自分。数秒固まった私を見た彼はそんな内情に気付いたように「ごめん、聞いても分からないか」と呟いた。その視線は私から外されて床に向かう。
――彼が何を考えているのか全く分からなかった。
 降谷が作ったうどんを席について食べながらちらりと彼を見やった。ずず、とネギと卵のみが乗ったそれを頬張っている彼は、ニュース番組を熱心に見ていて。おかずも何もないその内容に、もしかしたらあまり料理が得意ではないのかもしれないと思った。
――もしくは、作るのがただ単に面倒なだけなのかもしれない。
チラチラ見ていたことが伝わったのだろう、どうした?と彼の視線が向けられる。それに肩が跳ねた。まさか細心の注意を払っていたのに気付かれるなんて。目を丸くした私を見て怪訝な顔をする彼。それに内心慌てた。
「……名前を、何て呼べば良いのか分からなくて…」
「ああ、……そうだな、一緒に暮らしてるのに名字じゃ変だから零で良いよ」
「はい」
ドキドキ、と心臓がわめくのは彼にどう思われているのか分からなくて緊張しているから。彼の「零で良いよ」という言葉にこくりと頷いたが、ちゅるりと口の中に入れたうどんを咀嚼しつつ心の中で反芻する。「で良い」ということは零と呼んでほしいのではなく、仕方なくということだ。つまり、彼は私に「零」と呼んでほしいとは思っていない。
彼の名前を呼べる程親密な関係ではないのに、零と呼ぶことを申し訳なく思う。せめて、「さん」は付けよう。そして敬語も外さない。そう決めたところで、グラスに入っているお茶を飲む。
先程自分に向けられていた降谷の視線は既にニュース番組に戻っている。政府の話をしているそれをじっと見つめている彼と、まだ残っているうどんを食べている私。
女性のニュースキャスターの感情の籠らない声以外聞こえないこの部屋が、息苦しく感じられた。


 この一週間、高校に通う為に勉強をしつつ、降谷が仕事に出ている間の家事を行なっていた。洗濯、掃除、料理、買い物エトセトラ。いつも朝早く起きて夜まで帰って来ない降谷の為に働く毎日。
疲れもあって、退院した翌日の正午に目を覚ました私は、彼が既に家にいなかったことに驚いて暫し茫然としてしまったが、今では彼が朝ご飯を食べてから仕事に行けるように起きることが出来ている。
「どうぞ」
「ありがとう」
ことん、と彼の前にお茶碗を置いて始まる朝食。それはいつものようにニュースキャスターの声と食器が微かにぶつかる音しかない、静かな時間だった。一週間もそれを続けていれば、自分の中でも少しばかり慣れて。相変わらず彼とは必要最低限の話しかしなかった。きっと、どちらも何かを話す気がないのだろう。
記憶を失っているのに、それについて全く訊ねてこない降谷と、それに甘えながらもまだまだ彼に心を開くことは出来ない自分。傍から見れば歪なこの関係を、客観的に考えてみた私は小さく息を吐きだした。
――心を開いてないのは、私だけじゃない。この人もだ……。
伏せた睫毛は頬に影を落として、視界が微かに暗くなる。どうにも、何らかの原因からお互いにギクシャクしてしまっていた。
「今日から学校だろう?気を付けて行っておいで」
「はい」
鮭の身を解している彼の視線は鮭に向かっている。それに安堵していた私は静かに頷いて。数秒で終わってしまった会話に「もしかしたら、もっと話を長引かせた方が良かったのかもしれない」と焦燥感が生まれた。だって、普段だったら「今日はたぶん八時頃に帰ってくるよ」とか「今日はご飯いらないよ」とかそういう連絡事項しかないのに。
珍しく言葉をかけてもらったのに、上手く返せない話しベタな自分を恨んだ。そんなことを悩んでいる間に、降谷は朝餉を終え、歯を磨いて身形を整えてしまったらしい。
「じゃあ、行ってくる」
「お気を付けて」
ネクタイをピシッと締めて皺ひとつないジャケットを羽織った彼が時計の針を見上げて玄関へと向かう。ちらり、と一瞬だけ向けられた視線をそっと見返して彼を送り出す。もそもそ、と食べ続けていたが最後の一口を口の中に入れて、手を合わせて立ち上がった。私も早く歯を磨かないと。
――結局、初めて袖を通したセーラー服については、何も言われなかった。それは、少しだけ寂しかった。

 学校側にはの状態を説明してあるから、と言っていた降谷の言葉通り、江古田高校の教師は私を温かく受け入れてくれた。さんはこの教室ですよ、と案内してくれた担任の教師に従って教室に入る。そこには自分と同じ色の制服を着た女子生徒と学ランを着た男子生徒が一斉にこちらに目を向けていて。
――どうしよう。
途端に緊張し始めた心臓がどくどくと血液を全身に送り出して。顔が熱くなるのが分かった。きっと、こういう風に人前に出ることに慣れていないのだ。全く過去のことを覚えていない身としては、それが本当なのか分からないけれど。
自己紹介を、と促す女性の担任教師。その言葉を聞いてごくりと生唾を飲み込んだ。
です。よろしくお願いします」
ぺこりと頭を下げれば、パチパチと拍手が起きる。どうやら、受け入れてもらえたようだった。ほっと一息ついて教師が指した席に向かって腰を下ろす。周囲に座る男女から「よろしくね」とにこやかに声をかけてもらえたことで少しばかり緊張が薄れた。その中に身体の大きな男子がいなかったことが幸いである。
ちゃんのお家ってどこ〜?」
「いつもどういうことしてるの?」
「入院してたって聞いたけど大丈夫なのか?」
「あ、あの…」
目を丸くすることしかできない私に次々と新しい質問を浴びせてくる彼ら。ニコニコと笑っている彼らからは悪意なんてものは全く感じ取れなくて、まごまごとしながらも私は一つ一つ彼らの質問に答えていった。頭の中ではすぐに答えを浮かべられるのに、なぜか口にしようとすると上手く口が回らなくて、とてもゆっくりだったけれど、彼らはそれを最後まで聞いてくれる。
それに、「へえ」とか「すごい」なんて相槌まで打ってくれて。それに顔が熱くなる。そうすれば、「照れてるの?」なんておさげの女の子がケラケラ笑って、増々頬が熱くなる。それでも嫌な気はしなかった。それどころか、こうして“普通”の会話ができることにとても嬉しくて。
「これから、よろしくね…」
「もちろん!」
ちらり、と彼らを見上げれば彼らは一様に笑みを浮かべて頷いてくれる。それに、心中ほっと胸を撫で下ろす。クラスメイトとは上手くやっていけそうだし、これからは勉強も友達作りも頑張らないと、と。

 手の中にある小さな鍵。失くさないように、と付けられた青い小鳥のキーホルダーはとても可愛いけれど、これを渡してきた降谷の顔はいつも通り無表情だったのを覚えている。それを握りしめて、彼と暮らすマンションに入って行く。エントランスで自動ドアを開ける為に一度鍵を刺し込んで、中へ入る。
「お帰りなさい」
「ただいま…です…」
マンションの管理人の老紳士に穏やかに声をかけられて、会釈する。まだ、このマンションの住人であるという意識になれない私にも、優しくしてくれる彼。エレベーターに乗って、管理人の穏やかな笑みと、あまり笑った顔を見せてくれない降谷を両方思い浮かべる。
――零さんは、きっと何も知らないんだろうな…。
記憶を取り戻さないといけない、そう思っている私に対して彼は全くそういったことを聞いて来ない。そもそも彼には記憶を失う前の私の情報などないようで。早く記憶を取り戻して家へ帰れ、と言われないことには安心するけれど、それでも何も言われなければ言われないで不安や焦燥感にかられる。
「私は、どこから来たのかな…」
ぽつり、と呟いて部屋の扉を開ける。ただいま、と小さく声をかけたけれどこの時間帯に人がいる筈はない。降谷はいつも仕事で忙しいから。
ローファーを脱いできちんと踵を揃えてから部屋に上がる。午後の日差しが差し込むリビングには、もちろん降谷の温もりなんて無かった。そっと、ソファに腰を下ろす。だが、どことなく胸の中に渦巻いている何かがもやもやと体中に広がって、立ち上がる。音を立てずに窓辺へと寄って外を見れば、この一週間で少し見慣れるようになった外の景色。車道を走る車や、すぐ側にある公園、そしてきゃいきゃいと騒いでいる幼稚園児たちを導く女性たち。
目の前に広がる日常は確かに自分にだって平等に与えられている。しかし、私にはどうしてもその中にとけ込むことができないような気がした。



 2016/06/03


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