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おまえもまた水底の住人

 自分の身体から溢れる銀色の泡の柱。恐ろしい程に冷たく硬い水が身体を刺す。
――苦しい。寒い。
「ゴボゴボ……ッ」
視界は暗い水、そして泡で満たされていて。本当に、本当に昔、母親から読んでもらった人魚姫の絵本を思い出して、胸をぎゅっと締め付けられた。人魚になれたら、きっとこの中でも自由に泳いで逃げられるのに。
――それが、最後の瞬間。


 ぽたっ…ぽたっ。規則的に聞こえる水の音。どこか清潔感溢れる薬品の匂いに、私の意識は浮上してきた。身体の節々が酷く痛む。特に、頭。ズキズキと痛む身体に気付いてしまえばもう寝ているなんてことは出来なくて。そろそろと瞼を開けてみれば、視界に広がるのは白くて無機質な天井だった。
――ここは…。
ぼんやりとした意識だったが、そっと首を動かして周囲を眺める。すぐ側にある窓からは外の景色を見ることができた。たぶん、今は昼頃なのだろう。太陽が雲の間から見え隠れしているから。
だが、それと同時に自分の腕に繋がっている管に気が付いた。先程聞こえていた水音はどうやら点滴の音だったらしい。それを見てしまえば、自ずとここがどこなのか分かって。
――私、どうして病院にいるんだろう。
「…!!」
そう疑問に思ったのも束の間、目を覚ます以前のことどころか、家族や自分の名前すら何も覚えていない自分に頭が真っ白になる。どんなに思い出そうとしても、一つも記憶の欠片は出てこなくて。
――なんで、なんで……。
私は誰。なんでここにいるの。家はどこ?家族は。友人は。次々に頭の中に浮かぶ幾千もの質問に、自分が押しつぶされてしまいそうだった。だって、何も答えることができないから。
「……っ」
は、と息を吐いて身を起こそうとする。だがそれと同時にこの部屋に看護師と医師が入ってきて。私が身を起こしているのを見て微かに目を見開いた彼ら。背の高い男の医師に、なぜか私の身体はびくりと震えた。理由など分からないが、彼に恐怖を覚えたのだ。
「良かった。目が覚めたんですね。具合はどうですか?」
「あ、あの…私、なんで…」
にっこりと笑って近づく医師。その姿に何も恐怖を覚える必要なんてない筈だ。それなのに、何故かどくどくと脈が速くなって。何より、自分に記憶がないことが恐ろしかった。ぎゅっと目を瞑って震えていれば、何かを察した医師の気配が少し離れる。
「寝ている間にも検査はしたんですけど、念のためもう一度しておきましょうか」
代わりに私へと近付いてきたのは、看護師の女性だった。それに、私はゆるゆると瞼を開ける。親しみやすい笑みを浮かべた彼女に、どこかほっとして。
ただ、何も分からないこの状況にまだ手の震えは収まらなかった。
――私はこれからどうしていけば良いの…。
自分一人が闇の中に置き去りにされたかのような孤独感に襲われた。


 結論として、私は外傷性による記憶喪失ということだった。医師の説明を受けて、身分証明書も何も持っていなかったことから名前すら分からなかったということに目を見開く。それじゃあ、家族に連絡をすることも無理じゃない。
カチカチと小さく鳴るのは、漠然とした恐怖から歯と歯がぶつかっている証拠。船に乗っていて何らかの事故に巻き込まれた可能性が高いと言われたが、私の耳にはもう入ってこなかった。
全身の打撲痕や栄養失調もあって、数日間病院に世話になることになったが、これからいったい何をすればいいのか分からない。そっと、ベッドに横たわって窓の外を見やる。そこはそろそろ夜になる頃で。紺色に染まった空に、無性に恐ろしくなった。なんで、私は自分の名前さえ思い出せないんだろう。
――怖い……。
こんな時に、父親の面影も思い浮かべることができないのが、とてつもなく残酷だと思った。
 翌日、警察関係の人間が私の病室にやって来た。ぞろぞろとまるで何かを警戒するかのようにやって来た彼ら。この部屋が私専用で良かった。きっと、他にも患者がいたら迷惑をかけてしまっていたから。ギロリ、と鋭い瞳を向ける彼らに、身体は自然と震える。
「少し質問をするが、良いかな?」
「は、はい………」
体格の良い男性に見下ろされているという状態に圧迫感を覚えて。ぐらぐら、と歪む世界の中で、何度も質問をされた気がする。それでも恐怖から何を聞かれたのか全く覚えていなかった。
いつの間にか終わった尋問。彼らは既に病室にはいなくなっていて、ほっと一息吐いた。何故かは分からないけれど、私はどうやら体の大きな男性が怖いらしい。
そっと袖を捲れば、そこには青紫色になっている痣が数個あって。医師の話では脚にもあったという。そこをそっと擦れば鈍く傷む。これは事故に遭った時に出来たものなのだろうか。それとも、それ以前からあったものなのか。分からない。ぎゅっと目を瞑って膝を抱える。そのまま膝に額を当てれば、この状況に涙が溢れた。
――誰も、迎えに来てくれない。
父も母も、友人も。私には誰も分からないのに、それでもまだそのどれかに縋りつきたいと思う。涙で歪んだ世界には、窓の外の暗闇が恐ろしい魔界のように映る。夜は、恐ろしかった。誰も私を目に映してくれない。名を呼んでくれない。私という存在がまるでこの世界にいないかのように感じられるから。夜の闇に身体が溶けて、そのまま消えてしまうような気がして。
――私は、誰なの……。
お願いだから、私の名前を呼んで。そう、暗闇に浮かぶ星に祈ることしかできない。
――私の中はからっぽだ。


 虚ろな瞳で窓の外を眺める。空からは太陽の光が燦々と降り注いでいた。この光を見ていると、少しだけ心が安らぐ。誰もいない、自分が消えてしまいそうな夜は恐ろしいから。そっと自分の肩を抱く。
今日は退院の日だ。それなのに、私はこれからの未来を何も描けていない。今日の夕方になれば私はこの病院から追い出されるだろう。そこから先を、どうしていけば良いのか全く皆目見当つかない。
いつの間にか握りしめていた拳は、白くなっていた。血の気の無いその手の平をそっと開く。じんわりと時間をかけて赤みが戻ってくる様子をぼんやりと眺めていた。私には荷物も何もないから、追い出すのは簡単なんだろうな。
そう思ってしまえば、胃がキリキリと痛くなって。警察の人たちにも何度も何度も質問を繰り返されて、神経は削られるばっかりだった。それから解き放たれるなら、ある意味良いことなのかもしれないけれど。
はぁ、という溜息さえ出ない。胃の中でぐるぐると渦巻いているのは、緊張と不安、そして恐怖だ。結局、記憶は一つも戻っていなかった。
「…!」
ああ。頭に浮かぶその言葉。そっか。膝の上にある両の手の平を見る。気付いてしまった。
――名前を呼ばれないということは、この世界で私は死んでしまったんだ。
そうと分かってしまえば、もう胸も頭の中もぽっかりと穴が開いたように空虚になって。私は死んだんだ。再度確認するかのように小さく呟けば、ぽろりと涙が真っ白なシーツの上にこぼれ落ちた。
――コンコン。
しかし、そこに響くノック音。誰だろう。また、警察の人だったら。ぶるりと身体が震えるのも無理はない。彼らはこの病室に来て威圧的な様子で一日中私を質問攻めにするのだから。
「こんにちは」
だが、入ってきたのは彼らのような強面の人物ではなく、褐色の肌を持った優しそうな顔の男性。背は高いが、かといって顕著に体格が良いというわけでもない。それでも、男というだけで身体は強張る。
きゅっと唇を引き結んで彼を見上げれば、彼は私を安堵させるかのように小さく微笑んだ。
「来るのが遅くなってごめん、
「…!」
椅子に座って柔らかい視線を送る彼の言葉に、目を見開く。今、彼は何と言ったのだろう。、と私を呼んだ。それに、そろそろと視線を持ち上げて彼の目を見つめ返す。男性の目を見つめるというのは、それだけで手の平にじんわりと汗が出てきて。
「俺は降谷零。君の遠い親戚だよ」
――一緒に帰ろうか。
そう言って私に手を差し伸べてくれた彼。その顔は太陽の光に照らされて、眩しくて。だけど、先程のような柔らかい笑みはなかった。それが何故なのか分からない。スーツを着ているから仕事で疲れていたのかもしれないし、突然遠方の親戚の少女を迎えにいくことに面倒だと思っていたのかもしれない。
手を握り返すことすら出来ず、こくりと頷けば彼は差し出した手を引っ込めて立ち上がった。
「さあ、家に帰ろう」
ベッドから立ち上がって、扉へと近付く彼の背中を追う。この人が誰なのか、とか家はどこなのかとか、どこまで家族は知っているのかとかそういうのはどうでも良かった。
――ただ、自分の名前がであると分かっただけで、世界に受け入れられたような気がするの。
……」
初めて口にするその名は、聞き覚えなど全くない名前だった。


 2016/04/24


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